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2013年11月19日火曜日

フィリピン台風-被災した実家を訪れた友人の話

台風で壊滅的なダメージを受けたタクロバンを家族の捜索のために訪れた友人がマニラに戻っていると連絡を受け、彼女とひと時お茶をしました。

彼女とは入学年が異なりつつも一緒にスキューバーダイビングを楽しんだり、お茶をしたりして頻繁に会う仲の良い友人。そのため、一週間前に彼女が家族の捜索のためにタクロバン入りをする話を聞き、驚きそして心底心配しました。

11月8日に直撃した台風から一晩、眠れぬ夜を過ごした友人は翌日にはタクロバン入りを決意、そしてつてをたどりアメリカの軍用機に乗り込んで現地りを果たしました。彼女の実名と破壊された彼女の実家はUSA TODAYに「Searching for loved ones in typhoon's devastation」でインタビューと共に掲載されています。医療品が積みこまれた軍用機から彼女は実家を目撃し、写真に収めています。

おりたつべき空港も流され、至る所ががれきの山。彼女の到着は比較的早かったため、回収されていない遺体も至る所にあり、道すがらそれらを見ました。公共の交通手段が機能していないために数時間歩いて生まれ故郷のタクロバンの生家に到着。骨組みのかろうじて残った家を見て愕然としたと同時に、その場にいた親族に家族の無事のニュースを受けました。

両親との再会、これまでにないほど強く両親をハグしたようです。私自身も昨晩、マニラに戻った彼女に同じことをしたので、生存の安否を気にしていた家族であればなおさらです。

家族の安否を確認して、どういうわけか友人の口から出来てた質問は「私の部屋はどこ?」、両親たちは大爆笑だったようです。上述の通り、骨組みのみが残る家には、家具が洗い流された後に外から入ってきた泥水、そして瓦礫が占有しています。家族が団欒を楽しんでいたリビングルームからは泥に埋もれた子どもの遺体があり、のちに近所の子どもが行方不明となっていたのでその子どもではないかとのことでした。

台風のその日、水は5メートルほどの高さまで上がりました。台風の当日両親は避難所には行かず、自宅で過ごし難を逃れたと言いますが、ある種これほどひどくはなるまいという楽観的観測があったように思います。湾岸都市、タクロバンもとりわけダウンタウンはその地理的な条件故に今回の台風の中幾度となく高波が異なる方向から襲いました。

家族の安否を確認した後に街を歩くと瓦礫の山そして遺体。中でも子どもを強く抱いたまま溺れた母親の遺体を見た時にはやるせない気持ちになったといいます。

生存者も瓦礫などで怪我を負い、国内外の医療チームが治療にあたっていますが、麻酔なしで簡単な外科手術を行わなければならないこともただあり、友人は家族を亡くし誰も付き添うものが居ない患者の手を手術中ずっと握っていました。

また、台風の高潮に襲われ家族の全てを失った8歳の女の子にも出会ったといいます。彼女は強風と高潮が収まるまでずっとヤシの木にしがみついていたといいます。

現在彼女の家族はマニラの彼女のアパートにて生活しています。家は破壊しつくされ、彼女の実家もそして街も復興にどれだけ時間がかかるのかわかりませんが、台風の巨大化そして進路が南に傾きつつある昨今、災害に強い街を作るのと同時に「地球の温暖化は本当に進んでいる」という友人の言葉の通り、温暖化の対策と個人・社会の責任を強く意識するものです。


2013年11月18日月曜日

ミンダナオPeace Camp (1) :全体の様子

10月31日から11月8日まで、フィリピン、ミンダナオ島、キダパワンで行われたピース・キャンプに参加しておりました。このピース・キャンプは特にIP(先住民族)、クリスチャン、ムスリムの若者をつなぐ、平和という観点から行われた人材育成のプログラムです。

実施団体はBinhi ng Kapayapaan. Inc(平和の種)、(以下ビンヒ)という団体です。代表は教育者/活動家(NGOワーカー)である、フィリピン人女性、私たちの間では母親的な立場であるためナナイ・アンゲ(Nanay Angge)、アンゲお母さん。彼女が、フィリピンの平和関係に携わる人を巻き込んで始めた活動です。ピキットのピースゾーンを作るのに尽力されたバート牧師も創設メンバーの一人です。元々はアレリアノ大学を母体としておりましたが、今は独立してNGOとして活動しています。

9日間の日程で行われた今回のキャンプは過去5年の集大成でした。通常このようなキャンプ/トレーニングは一過性で、一度参加したらそれ以降は参加しないのですが、3つのグループの若者の関係を強固にするため5年というタームを持ってキャンプやワークショップを実施してきました。今回は、これまで参加してきた彼らの「卒業」の時であり、代表も一歩退いて若い世代が代表の役割を担うことになる、まさに団体としても変化の時でもありました。数年間参加した若者は高校生であった者は大学生に、そして大学を卒業して、それぞれの専門分野で既に働いている若者のたちもいます。

フィリピン人はお話し好きで、大家族で育ったためか非常に人との関係を作るのがウマいのですが、地域性が強く一つにまとまるのが本当に難しいと言います。5年間をかけて徐々に束ねて行った様子が伺えます。

約50名の参加者は、キャンプ中仕事や学校の都合で早く帰らねばならない者や途中から参加する者もいましたが、それによって雰囲気が変わるというわけでもなく皆で和気藹々と過ごしました。

国道から見えるピースガーデン
キャンプのコンテンツは、歌や踊りなどの情緒的なもの、あるいは宗教的なもの、これまでのキャンプの中で彼らが作った儀式的なもの、知性よりはどちらかというと感性に訴えるワークショップ、そしてゲストスピーカーによる話、クライマックスがミンダナオで紛争を経験した地であるピキットでのピース・ウォークでした。

私はゲストスピーカーの一人として、広島の原爆の話、そしてどうやって平和活動に携わるようになったのか、先方からリクエストを受けた内容を盛り込んで話させていただきました。また、2歳の時に被曝し、若くして亡くなった佐々木貞子さんの話をした後に皆で折り鶴を折ったりもしました。

大まかなスケジュールは以下
10月30日マニラからダバオ、キダパワンの宿泊・研修施設へ移動
10月31日ミンダナオ島からの参加者と合流
      開始
11月1日オリエンテーション、キャンプへの期待、キャンプの歴史、ゲストスピーカー(1)「ミンダナオ和平プロセス」
11月2日ゲストスピーカー(2)「コソボの紛争」、ワークショップ「私の平和への旅路」
11月3日ゲストスピーカー(3)「原爆、そして平和活動」
11月4日ゲストスピーカー(4)「平和活動に携わる女性」、団体のこれからについてディスカッション(1)、リーダーの選出(投票)ゲストスピーカー(5)ピキットについて
11月5日ピース・ウォークの準備、
11月6日ピース・ウォーク、式典@ピキット、バランガイ・タケパン
11月7日団体のこれからについてディスカッション(2)、クロージング
11月8日リフレクション
11月9日移動(キダパワン-ブキッドノン)、先住民族のコミュニティでの儀式に参加
11月10日移動(ブキッドノン-カミギン)
11月11日~13日カミギン滞在

盛りだくさんの内容は現在振り返り消化しているところです。

それにしても、人が育っていくのは自分を含めて時間がかかるのだと改めて思いました。団体の名称通り、平和の種が播かれ芽を出したと言ってもいいかもしれません。その象徴が、クライマックスのピキットでのピースフォーク、NGO、地元住人、教員、兵士、警察も参加しました。「平和は達成可能」それを観たピキット出身の参加者が口にした言葉です。

平和にちなんだ試みは数多く行われていますが、平和の可能性そしてそのプロセスをフィリピンの若者が自分の事として感じるには十分な期間であったと思います。

※11月13日マニラに戻る予定でしたが、フライトのキャンセルのため、14日マニラに戻りました。


2013年11月17日日曜日

フィリピン台風被害の支援-何が出来るのか?

ミンダナオでの平和キャンプを終えて戻った後、キャンプを主催したNGOのミーティングに参加し、台風の被害を見聞きして受けた印象、あるいは親族との音信が途絶える家族への心配の思いを共有し、カトリック教会の呼びかけに応じて被災者への祈りをささげると同時に今後個人として、また団体として何が出来るのかを話し合いました。

会議参加者から聞かれた声
皆から聞かれた言葉は、驚き、悲しみ、痛み、しかし希望もあるといったものでした。会議を参加した大半の会議参加者が、Peace Campに参加していたため、インターネットあるいはテレビが見られる環境になって状況の深刻さにまず驚愕しました。家族、親族と連絡がつかないため心配する気持ちを抑えられない、あるいはテレビの映像を観て思わず涙を流したと言います。そして多くを失ったことへの痛み。しかし、困難な状況はこの個性ある地域に分断された国が一つの方向を向いてくきっかけではないかという声も聞かれました。フィリピン人は皆仲が良いので一つにまとまりやすいと思われがちですが、実際は古くから地理的な分断により独自のコミュニティを作ってきてきたため地域主義が染みついています。皆が同じ方向を向いて国を考えるチャンスなのだろうと考えたと言います。痛みを伴いつつもその起こった意味を捉えようとしている様子でした。

この間、政府の対応のまずさが批判の対象になっていますが、地域の政府を持って動く中央政府は地域政府に勤める役人自体が被災しているために出来ることが限られているようにも思われます。日本の震災の時もそうだったと思います。そうした状況で、政府の対応が十分ではないとどこまで言い切れるのか。それを予想して対応できるほどの資源も予算もあるのかも不確かであるため、私自身も含めて政府の非難より政治的意志の統一と動員がどこまで可能か、そしてそうなることを望む声が多く聞かれました。それと同時に海外からの迅速な支援に励まされるという声が聞かれました。

被災者への祈り
枢機卿タグルは、会議の行われた16日土曜日を追悼と希望の日として、祈りによる団結を呼びかけました。懺悔と瞑想、そして断食を呼びかけました。夜6時には教会の鐘が鳴り、一月前のボホールでの地震、そして今回のスーパー台風の被災者のために祈りを捧げました。
大きな災害が起こると宗教的意味合いと結びつけられる土地柄です。タクロバンを聖書のソドム・ゴモラの町に結び付け人々が話す声も聞かれます。また、他の宗教からはカトリックへの批判、教会の腐敗の故に罰が下ったという人もいるのだとか。今日の祈りの日がレイテ島の被災者たちを無言で糾弾するものではなく、個々人の深い内省に結びついたらと思っております。

何が出来るのか
個人、グループ、短期、長期の視点でざっくり話し合いました。詳細は来週のリーダーミーティング(なぜか私も投票によりリーダーに選出されましたので・・・)に持ち越しですが、以下がおおよその話し合いの結果です。

個人としてすぐに出来ることとして挙がったのは
-FBでポジティブなメッセージを拡散し、団結を呼びかけること
-寄付
-自分の生活習慣を変える

団体として出来ること
-サイコソーシャル(Psychosocial)、心理的手法を用いての被災者支援のためのボランティアトレーニングと派遣
-団体のメンバーに一日30分、夜の9時から9時半まで電気を消す、そして瞑想の時間を持つ

自分の生活習慣を変えると言うのは、台風の巨大化が地球の温暖化による可能性が高いため、今回の台風を警告として捉えて自分の生活を改めるということでした。環境活動家は、仕組みの変化の重要性を強調し、こうした個人の取り組みを軽視する傾向にあると思います。電気も留めておくことが出来ないので使わなくてもその分を発生させる仕組みがもう出来上がっている・・しかし、それらの事実を認識しつつも啓蒙的意味合いを持って30分の消灯など決めたわけです。台風を止めることは出来ないまでも台風をもしかしたら巨大化させないための温暖化への取り組みは、個々人としても社会として取り組まねばならないことだと感じます。なので被災者支援へのサポートも大切ながらも、環境問題にどう取り組むのか具体的な策の必要性を強く感じます。
瞑想の理由は、情報と物質に溢れるこの社会で衝動に抗らう力を高め、不安を軽減するなどの効果があるためです。シンプルに生活を営む一つきっかけとなるのではと思います。

最後に
寄付が何より有難いものの、台風が来るたびに対処的に援助を行っている状況に何とも言えぬ疲労感を感じます。自らも何か出来る道を探りつつも、地球そのものの環境の変化と捉えて、まずは自らの足元から考えるべきだと自分自身思った次第です。

懸念は、今は被害に遭った直後であるために世界的な注目を集めていますが、あと一カ月もしないうちに人々はこの災害を忘れさられることです。またタイミング的には年末年始、お金も必要になります。しかし、被害が甚大であったため、長期的な支援が必要になります。
寄付を考えている方にお願いしたいのは、少々待って頂くこと、そして一カ月、二カ月後に現地の人たちと直接のつながりを持つ団体への寄付して頂くことをおススメします。更に言うと、環境に優しい生活をして浮いたお金を寄付して下さったら嬉しいと思っております。温暖化が巨大化する台風の原因と訴えるなら(汗)その負の貢献をしている先進国や便利な生活を居住する都市部に生きる人々にも大きな非があるとも読みとれるのですが、それなら「罪滅ぼし」のためのお金よりも、原因に対応する形で少しでもお金が集められたらいいのではと思った次第です。

被災者支援ですが、缶詰もそうですが可能な限りローカルのマーケットで物資を購入し、現地の人に食事を準備してもらい、その代価を払う仕組みを作り、缶詰やインスタントラーメンなどで偏りがちな栄養、そして大量のごみが支援物資によってもたらされない援助を行っているローカルの団体もあります。そうした団体を時をみてご紹介していけたらと思っております。














2013年9月7日土曜日

国際平和の日(International Day of Peace)を祝う

 国際平和の日(International Day of Peace)、通称ピースデーのこの日は平和、特に戦地なら一時的に停戦とするように推奨される日で、フィリピンでもこの日に現地のNGOによってイベントがおこなわれ、滞在期間とこの日が重なると必ず出席しています。

[国際平和の日の始り]
 1981年11月30日の77回目の総会で、コスタリカとイギリスの発案で国際平和の日が、国連の決議36/67として決議され、9月の第3火曜日(総会の通常会期が始まる日)を平和の理想を強化する日としました。しかしながら、1989-1996年までの間に大型の武力紛争は減少傾向を示すものの、既存の国家権力への挑戦を重点とする新型の紛争が見られるようになり、平和の日は無視され続けてきました。

[9月の第3火曜日から固定の9月21日へ]
イギリスのフィルムメーカーであるジェレミィ・ギリがロビーイングにより関係政府に働きかけをしながら、2001年9月7日の決議55/282で、9月21日に固定された日になり、紛争地域に一時停戦を呼びかけるようになりました。2001年9月11日、当時の国連事務総長であるコフィ・アナンが、メディアに向けての発表を行い、国連の平和の鐘を打ちイベントを行うという時に、ワールドトレードセンターへの旅客機衝突、アメリカ同時多発テロ(911)として知られる事件が起こり、イベントは中止、ニューヨーク国連ビルに集まったメディア、式典参加者は避難を余儀なくされました。
 この平和の日、正確には人々の平和を望む人々は、来る対テロ戦争などでその日が意味するところを試されることになります。何とも波乱な平和の日、第二章の幕開けでした。

Peace Wallの序幕式(2009年)ケソンメモリアルサークル
にて
[フィリピンでの国際平和の日を祝うイベント]
 滞在中のフィリピンで、平和の日のイベントに度々参加してきました。毎年行われているケソンメモリアルサークルでのイベントでは、主にケソン市のNGO、Gaston Z. Ortigas Peace Institute、ミリアム大学の平和教育センター、Peace makers circleなどが中心となりながら、コンサート、ゲームなど気軽に楽しめる企画をし、大小様々な団体が参加しNGOなどのブース展示もします。
 同日に和平プロセス担当大統領顧問室(Office of Presidential Advisor on the Peace Process:OPAPP)がフィリピンの商業都市であるマカティ市のショッピングモールで、音楽とこれまでの活動の発表をするイベントも開催されました。当日動員されたであろう多くの警察官たちがいたのが印象的でした。

[参加した感想]
 公園、あるいはショッピングモールでの開催で一般の人の目に触れる場所でありますが、それでもやっぱりまだ、マイナーな日であることは変わりません。現在生活するオランダの街の学生たちに国際平和の日にワークショップをしようとという話をしたら、それはいったいどういう日なのか?と聞かれました。国連の定めた記念日などよほどの機会がないか、ニュースとならない限りは知らなれないと思います。私が国際関係などに興味を持つ前などは、かろうじて「世界のこどもの日(11月20日)」、「女性の日(3月8日)」などは聞いたことがありましたが、それ以外はあまりなじみがありませんでした。
 世界で起こっている出来事に対して、わずかながらも考える余地を生みだすのが、啓蒙としての国際記念日の良さですが、実際はあまり知られていない日が多いということと、それがメディアとしてのニュースバリューをあまり持ちえないという難しさがあると思います。だから、国際機関のみならず国内のキャンペーンでも著名な人たちに関わってもらうことで認知度を上げるようにつとめます。啓蒙、イベントを打ってお金がかかり、数値的な結果がすぐに見えないけど、何もしなければ何も始まらないのですが、難しいところです。

[日本ではどうだろうか?]
 これまでの平和運動の経緯で、平和とその活動自体が参加する人達の(政治)思想によって平和が解釈され、特定の政治体制、国に偏った批判とその批判を行う団体と理解されていると感じます。また、「平和」だれもが反対出来ない言葉ながらも、どこか現実を無視したような愚かな理想主義的な響きすら感じさせてしまいます。
 フィリピンでは昨年2012年の10月フィリピン政府と、モロ・イスラム解放戦線(MILF)との間に歴史的な和平講和の枠組み合意がなされ、40年にも渡る紛争が一つの大きな区切りを迎えました。現在は、両者で今後の詳細を決める話し合いが続いていると言います。上記のような平和団体による活動による成果と言うよりは何よりも政治的意志が強かったと思いますが、フィリピン政府の組織OPAPPで交渉に携わってきた女性は上記に述べたNGO出身でした。草の根の視点を知りつつ、政府に批判的な姿勢を少なからず持っていると思いますが、それでも平和構築の重要な一役担いました。NGOなどの国に比べると小さな組織と、政府とのつながりのダイナミズムを感じました。フィリピンだから出来たのでしょうか? 
 
 最後に、平和な場所から、平和を訴えることは何とも愚かなことと思われるかもしれませんが、所謂先進国と言われる豊かな国が考え、そして果たせる政治的、かつ経済的な役割は大きいと思います。多国籍企業は、紛争地にもその支社を持ち影響を持っています。そうした国や企業が紛争に関わる中で大きな影響を与えてきたということは繰り返し言われてきたことです。「紛争ダイヤモンド」などは分かりやすい例ではないかと思います。

 今年の平和の日は、オランダ田舎街(なんて失礼な!)でワークショップを行います。それまでに現在の夫婦喧嘩の停戦、和平講和にのぞみたいと思います。

2013年9月4日水曜日

Youth Acty!! ‐若者にオルタナティブはあるのか?

私は学生ではありませんが、NPOのIVUSAさんが発行する大学生のためのフリーペーパー、Youth Acty!の制作に関わっております。
 学生に覇気がない、あるいは守りに入っているなど、いつの時代もですが、学生を含めて若者全般に関しての文句は一向になくなりませんが、「このままでいいのか?」と問題意識や危機感を持ち、何か行動したいと思っている大学生や若者は昔より確実に増えており、その彼らの背中を多少なりとも押すような情報を提供できたらと思い、フリーペーパーの制作を始めました。

 既存の経済至上主義や競争原理に対するオルタナティブな価値観やライフスタイルを、同じ若者・大学生の視点から提案・発信していくとともに、「何かしなくちゃ」と感じている大学生や若者に社会へのアクションのきっかけを提供していくという高い志と健全な好奇心のもと雑誌をつくり始めて早、5年です。

 5年の中で、8回ほどの発行といささか少ないようにも感じられますが、基本姿勢としては毎回大学卒業などで入れ替わる編集者の関心、そして世の中の方向を見ながらテーマを決めて、編集側も学びを深めていく形で発行していきます。

 これまでの企画で、学生らしさ全開の特集は、ダッ●ュ村企画であったと個人的には思います。
学生が東京を離れ、また携帯、パソコンなどの使用を禁止して、自給自足で生活し、その体験を記事にするという体当たりな企画。既存の雑誌にもこうした企画物はありますが、手作りの豆腐、五右衛門風呂、近所の人との物々交換など、数日でいろいろ体験したようで、私も参加したかったと思いました。
 これまで社会への訴求が大きかったテーマは、無縁社会。この言葉の生みの親である、板垣 淑子さん(NHK報道局社会番組部報道ディレクター)、若者を中心に労働相談のサービスを提供しているPOSSEの青木 耕太郎さん(一橋大学)と、ホームレスや生活困窮者、ワーキングプアの問題に取り組んでいる自立生活サポートセンターもやいスタッフの冨樫 匡孝さんなどへのインタビューはレイアウトをしながら、いろいろと考えました。
Youth Acty! のインタビュー記事はこちら→(http://www.youthacty.net/interview/569

 関わりで学んだ大切なことは、「思いのほかあった若者の力」でした。あれ、若者と活動している
から、若者に対してポジティブで、若者の力を信じているのでは?とよい意味で勝手に思われていますが、残念ながら違います。
 若者に対するネガティブな印象は、私の大学生活にはじまっています。親にサポートされてふにゃふにゃ生きている若者がある種妬ましく、まったく同年代ながら受け付けられない存在でした。自分で生きているわけではないのに、一人前ぶったり、若者の特権と言いつつ(当時の私から見ると)理解不可能なことをしたり・・・そのあたりの突き放し感はいまも変わりませんが、若者だからできることというマジックワードに潜む実態を見て少々見方が変わりました。
 彼らはカオスを内包している。きれいな言葉だと、可能性なのでしょうが、あえてカオスと呼ぶのは、彼ら自身も実態が分かっていないから。もっと年をとって経験を積む混沌が集約されていきます。カオスから夜、昼が生まれたように。色んな意見を取り入れて、自分なりに吟味して、価値観を形成していく時期故に、形作られていく力を感じます。

 若者の力は、更に海外だとより強く感じます。特に途上国と言われる国々は若者の人口比が非常に高く、彼らの政治への影響力は侮れません。日本ではそのあたりは、若者の投票率の低さからも見る通り、弱いと言わざる得ませんが、今後の政治教育と参加次第ではと思います。Youth-Acty!最新号は「僕たちのマニフェスト」と題して、7月の選挙に絡めて、労働・雇用政策、政治参画政策、エネルギー政策などを特集しました。

 近頃はどうかわかりませんが、日本の大学は入るに難しく、出るには易しい故、大学時代を自分を形作る期間としてどうデザインするか、「自分の人生を生きるのか」それとも「他の人の生きる人生を模倣をするのか」の分かれ目ではと思います。
 
最新号のPDFはこちらのウェブサイトからダウンロード可能です。http://unitedyouth.blog96.fc2.com/blog-entry-20.html






 

2013年9月2日月曜日

アンネの日記の舞台を訪れる - アンネフランクハウス‐

 アンネ・フランクは、「アンネの日記」の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれ、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家は故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命しました。
アンネフランクハウス(Anne Frank Huis)は、オランダのアムステルダムにあり、アンネ・フランクの一家を含めた8人が1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れるため隠れ家として住んでいた家を利用した博物館で、現在アンネ・フランク財団が管理運営を行っております。オランダ訪問の際は立ち寄るべき場所であると思います。

 博物館自体はそれほど大きなものではありませんが、二年間隠れ住んだ屋根裏、アンネの日記の原本、当時の反ユダヤ主義を回想させる展示物など歴史的な資料も見ることができます。また訪問者が人種差別について考える映像を交えた仕組み等があり、展示物を見て考えたことを反芻できる場所となります。

 この隠れ家で生活していたのは、アンネ・フランク、オットー・フランク(アンネの父)、エーディト・フランク(アンネの母)、マルゴット・フランク(アンネの姉)、ペーター・ファン・ペルス(アンネと恋愛関係になる少年)、ヘルマン・ファン・ペルス(ペーターの父)、アウグステ・ファン・ペルス(ペーターの母)フリッツ・プフェファー(歯科医)の8人。彼らの名前は日記では本名でつづられていません。8人のうちで生き残ったのがアンネの父、オットーフランクでした。アンネは、ドイツ軍からの解放を待たず、姉のマルゴットが亡くなって2,3日の後腸チフスのため強制収容所にて亡くなりました。

 8人が隠れ住んだ場所は、1階、2階部分はオフィスとして使用されいた場所で、3階4階部分を隠れ家として改装して使用していました。部屋は8人が生活するには少々狭く、事務所が開いている日中は音に相当気を使わなければならないものの、それでも個々人のプライバシーは確保され、家具なども事前に運ばれて準備をされていたために自由はないながらも、生活は営めたようです。隠れ家では、そうした難しい事情ながらもユダヤ教の祝い事や誕生日なども祝われたといいます。アンネフランクハウスの内部は残念ながらカメラ撮影禁止ですが、youtube(Visit The Secret Annex Online in English, Dutch or German!で検索)で内部の様子を映像として公開されていますので、視聴おススメです。
 
アンネの日記は60か国語以上に翻訳され、多くの人に読まれ、またこれまでに映画化(アニメ化)がなされ、世界一有名な日記帳ですが、これまでに日記については様々な論争がありました。日記のオリジナル性を問うもの、ねつ造疑惑等です。日記は14、5歳の少女が書いたものとしては早熟であったということ、日記にはオリジナル版と清書の2つが存在し、どちらも完全な形では残っていなかったため、のちにオットー・フランクにより、両原稿を相互補完する形で編集されたため、本人の筆ではない等などの批判がなされました。ちなみにオリジナルは辛辣な批判、(特に母親に対する)も含むため、削除された箇所もあります。そのような理由から後に鑑定が行われ、最終的にはアンネ本人が書いたものと結論付けられたといいます。
 また、そもそもアンネフランクなる人物は存在しなかったという批判がなされ、裁判になりました。後に一家を逮捕した秘密警察を探しだし、アンネフランクが実在の人物であるという証言を得ました。いくつかの法廷論争が後に起こったのですが、判決からアンネは存在していたし、アンネの日記は価値ある書籍であるという結論は変わらないと思います。そして、2009年にはユネスコの世界の記憶にも登録されています。

 アンネの日記とともにおススメが、ビィクトール・フランクルによって書かれた「夜と霧」。強制収容所での過酷な生活の記述とともに、いかなる人生の局面においても人間の内面とそこに宿る何かを忘れないことが生きる力となるという感想を持ちました。人間の心理、内面への洞察が哲学的であり、収容所を体験した個人の記録としても非常に意義深いのですが、深い哲学性故にこれまでに多く出版されて来た収容所の体験談以上に長く読まれているのだとおもいます。

[アンネフランクハウス]
電話 020 556 7105
ウェブサイト http://www.annefrank.org
Youtube http://www.youtube.com/annefrank
Twitter http://twitter.com/annefrankhouse
所在地 Prinsengracht 267 1016GV Amsterdam

2013年9月1日日曜日

ヴェステルボルク通過収容所を訪れて

身近な人が亡くなることを悼むのは自然の心情。彼らとの関係から、自分の一部が亡くなるように私は感じます。しかし、まったく会ったことがない人が亡くなることにはそれほど繊細にならないのではと思います。敏感に彼らの死を感じるとしたら、それは恐らく彼らの人生の一部を何らかの形で知って、一時でも彼らの状況を想像する、感情移入する時、あるいは自分の経験と照らし合わせて彼らの状況を慮るときなのではないでしょうか。ニュースなどで聞く他人、そして多数の死は数以上に何も意味を持たないものなのでしょうか?全てに敏感になっていたら身がもちませんが、彼らをそういう状態に置く、暴力を憎む気持ちを持ちたい、そして歴史を学ぶためこうした場所に極力訪れるようにしています。

 ヴェステルボルク通過収容所は、第二次世界大戦中、オランダのユダヤ人やジプシー(ロマ民族)、レジスタンスなどの人たちがオランダの外、とりわけドイツ、ポーランドにある絶滅収容所や強制収容所へと移送されていく通過点になった場所です。1944年8月4日、アンネフランクの一家はゲシュタボによって隠れ家を発見され、その後8月8日に移送され、アウシュビッツ強制収容所に移動されるまでの約一カ月をここで過ごしました。残念ながら交通の便があまり良くはない場所にある博物館ですが、オランダにお越しの際は来られたらよい場所かと思います。

 ヴェステルボルク通過収容所の博物館の展示は、大きくは2つに分かれています。一つは通過収容所と収容者たちの生活、そしてその当時の情勢などが時系列に説明されています。もうひとつは、手紙や証言など個人の記述、証言によってこの歴史的出来事を学べるスペース、とくに16歳以下の子どもたちがオランダのフトのキャンプからソビボル強制収容所に移送されその直後に虐殺された史実について焦点を当てております。博物館そのものはそれほど大きくはありませんが、展示物から歴史を学ぶことが出来、当時の様子、そして収容された個々人の人生、彼らの感情、そして家族とのつながり等を強く感じました。

 1941年、ドイツ軍は全てのユダヤ人をオランダの国外に強制退去させることを決定しました。ユダヤ人がシナゴーグを中心としたコミュニティを形成していることを知る、ドイツ軍はそれらリーダーはドイツ軍の意向に従うべく協力を強制されました。国内全てのユダヤ人は登録を強制され、登録をもとにヴェステルボルクに一時的に移送されます。勿論、強制退去の後に強制収容所で虐殺されることを聞き、登録をせず潜伏そして中には抵抗運動に加わる人たちも居ました。

 強制移住に際しては、手荷物はたった一つのスーツケースあるいはバックパックのみの携帯を許されました。収容所の登録に際して、全ての貴重品とお金は没収されます。収容されたユダヤ人たちの望みは、この通過収容所に解放される日がおとずれるまで、一日でも長く滞在すること。キャンプ内で仕事を見つけることで、長く滞在出来ることから、収容された人々は仕事を探すことにつとめたといいます。
 親衛隊(SS)は、通過収容所での生活を一般的な街のそれと変わらぬように努めたと言います。人々は結婚し、子どもも生まれ、病人は手厚い看護を受け、子どもたちは学校に通い、キャンプには劇場、図書館そして、シナゴークもありました。キャンプには期待と絶望の異なる感情に支配されていたといいます。

 通過収容所がユダヤ人たちを収容そして、オランダ国外に彼らを移送開始したのが1942年7月15日、1943年初頭から毎週の移送スケジュールが組まれるようになりました。毎週火曜日、1,000人ほどの収容者が移送させられ、1945年4月にカナダ軍に解放されるまで合計93回、10万人以上が通過収容所から強制収容所に送られました。
 35,000人がソビボルに送られ19人だけが生き延びました。62,000人がアウシュビッツに送られ1,000弱が戦中を生き延びたと言います。それらの強制収容施設に送られてすぐにガス室に送られた人々、そしてその他の人たちは、極めて過酷な強制労働に従事させられました。ベルゲン・ベルゼン強制収容所(Bergen-Belsen)、 テレージエンシュタット(Theresienstadt)に送られた8,000人のうち4,000人が生き延びたと記録されています。

 102000回:母、父、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、姪、甥、友人たちが殺された。
 (博物館内の展示物、説明文から) 
印象に残った記述は、未熟児として生まれた赤ちゃんの話。通過収容所に来る6日前に生まれた赤ちゃんは3カ月の未熟児。赤ちゃんの体重はたったの2.5ポンド(約1.1㎏)。通過収容所に到着と同時に、保育器に入れられ、その後体重は5.5ポンド(2.5㎏)まで増えましたが、その後すぐにアウシュビッツに送られたといいます。

 展示されている手紙や記述から、訪れた人は戦争について考え、戦争に対して嫌悪を抱かざる得ないのではないかと思いました。
 けど、実際の国際政治の文脈に合わせると、「仕方がない」と様々な事情から思い、理由をつけます。戦争の理由はいくつもあります。国の独立を維持するため、国防のため、迫害を受けている人たちがいるので保護する責任として、復讐、同盟国が戦争に関わっているから・・・
 国際的道義として、懐疑主義的、国家中心的道義主義、そしてコスモポリタンという異なる見方がありますが自分のコスモポリタンな側面が刺激されたように思います。自分自身、国際政治は、個々人からなる社会の問題とまでは突き詰めて思わず、また絶対的平和主義者ではないものの戦争や圧倒的な暴力をなくす努力、あるいは極力小さな規模で、そして初期で留められる方法はあるし、それを追求すべきであると強く思います。
 暴力を憎む心を持つことの重要性を考えつつ、実際の国内外の政治でそれらの思いがどういう形で反映されるか、現在のシリアの情勢も鑑みて考える日々です。
  

 

 

2013年8月28日水曜日

デモ-非暴力行動で社会に変化を起こす-

 8月25日、ナショナルヒーローズディ、休日の今日、フィリピンでは連日メディアをにぎわせているナポレス事件から、優先開発補助金=PDAFをめぐる汚職を防ぐために、リザール公園でデモが行われました。友人たちもリザール公園に参じた様子がFacebookの写真などからも見られます。10万人が集ったと言われるデモはエドサ革命の10分の1の人数ながらも現政権に大きなインパクトを与えたと思います。

 ナポレス事件こと、優先開発補助金=ポークバレルの不正受給事件が発覚して、一カ月以上経ちますが実際の汚職の規模、関係者の数はまだ今の時点では断定出来ていないようです。監査のできた410億ペソ、内61億ペソ強が活動内容に問題のある82団体(NGOなど)の772事業に、上院議員12人、下院議員180人のPDAFが使われたことが判明しています。

 議員自身が団体運営に関与、複数の団体の代表に同一人物が就任、入札などの公平な手続きを経ず議員の息のかかった業者を選定、支出に対して文書を残さず決定、団体の法律で定められた公的な登録がなく、所在地が不明、本来の目的を逸脱した資金の流用。どれ一つをとっても公的資金の拠出先とはなりえぬような団体であり、監査の甘さが糾弾されざる得ません。

ポーク・バレルとは
 通称ポーク・バレル:pork barrel(豚肉貯蔵用の樽)は、米国を起源とする政府事業助成金を意味し、フィリピンでは、議員の裁量によって事業を特定できる予算を指しています。優先開発補助金:Priority Development Assistance Fund(PDAF)が正式な名称です。ポーク・バレルは、南北戦争期に奴隷に塩漬け豚肉を与えたことを語源とされています。

ポークバレルの歴史
 フィリピンの議会制度は、アメリカ植民地時代の1907年に始まり、コモンウェルス(独立準備政府)発足の過程の中で形成され、その際にポーク・バレル制度も導入されました。大戦後の1946年独立以降、大統領制・二院制議会制とともにポーク・バレル制度も継承されました。
 1972 年のマルコス大統領の戒厳令布告を契機に、ポーク・バレル制度は大統領の特権となり政治的関心、利権の拡大のために使われたといいます。1986 年のエドサ革命によりマルコス政権が崩壊し、1987 年憲法の公布により大統領制・二院制議会制が復活し、ポーク・バレルはそのまま制度として残されました。
 1989 年にミンダナオ開発資金とヴィサヤ開発資金が、それぞれ政府支出金によって設けられ、北部のルソン地方を含めた全国的な開発資金として、 1990 年に全国開発資金( Countrywide
Development Fund:CDF )が設けられ、すべての下院議員・上院議員の選挙区における開発計画が推進されることになりました。2000 年、CDFは優先開発支援資金(Priority Development Assistance Fund:PDAF)に改称されました。
 
 この資金は、比較的国会の審議には通りづらい政治的関心が少なく、そして小規模のプロジェクトに対して使われていると聞きます。特に地方で、中央政府の手が行き届かない場所など、地元の政治家故に通じる事情で、プロジェクトを進めていくことが可能で、まったく完全なる悪ではないと言います。

しかし、この一カ月、フィリピンをにぎわせている今回のジャネット・ナポレス事件では100億ペソもの膨大な補助金が存在しないプロジェクトに、そして少数の利益に流れ、やはりこの補助金が汚職や不正の源泉になることを示しました。また、ポークバレルやその他公的資金をもって建設された建造物などに政治家やその親類の名前が入っていることがあります。法律で政治家が売名行為として、公的建造物の名前に自らの名前をつけることは禁じられていますが、その政治家の名前そのものではないにせよ、祖父など親族の名前などがでかでかとペイントされ、または建物が立てられたそばのターポリンバナーにはその政治家の写真と名前がしっかりを入っています。
 
 8月25日のデモはアキノ政権発足してから最大規模と言われます。アキノ大統領は、制度の見直しと改善を図ることを述べていますが、完全な撤廃を要求する声が高くデモの参加者10万人、そして参加は出来なかったものの今回の事件を発端に見えてくる汚職の全貌に怒りをあらわにした市民たちが、存続を許さないことだと思います。

 事業家で現在逃亡中のナポレスが捕まったら、事件の全容がもっと明らかになるのでしょうか。事実を知ることの大切さ言うまでもないのですが、市民がいったん収拾した事件から教訓を得ても、許し、忘れてしまうのではと恐れます。実際、マルコスの夫人イメルダを筆頭に、本来政治家としての資質が疑わしい政治家がいまだに選挙に出て、票を得ています。それは、政治が世襲化されているということも大きな構造的な理由ですが、どこか汚職を許してしまう体質があるのではないかと思います。アキノ政権でこうした事件が明らかになったことは、政権任期中にとっては一大事ですが、体質改善の千歳一隅のチャンスだと思います。汚職に徹底的に対する政治を掲げてきたアキノ大統領、不正に微塵の隙間も与えぬ政治を任期いっぱいやりぬいてほしいと、部外者ながらも感じます。




2013年8月21日水曜日

「はだしのゲン」がNGOワーカーとなった遠因

 「はだしのゲン」、個人的にも大変思い出深い図書が、松江市教育委員会が、子どもが自由に閲覧できない措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていたことがニュースとなりました。

「はだしのゲン」は週刊少年ジャンプに掲載された漫画で、作者の中沢啓治さんによる、自身の原爆の被爆体験を元にしてストーリーが描かれています。単行本、文庫本などを含めた累計発行部数は1000万部を超え、世界で20ヶ国語ほどに翻訳もされているといいます。2007年5月30日からウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、本作の英訳版を加盟国に配布され(47 News 2007/04/29 07:08)世界的にも知られている漫画です。

 漫画の中に、人の首を切る場面や女性が乱暴される場面など、一部に過激な描写があることが教育委員会の公式見解だそうですが、“一般市民”が教育委員会に図書の撤去の要請をしたことが、今回の発端だったようです。(47 News 2013/08/21 20:51 松江、高知の教委にゲン撤去要請 男性がブログで明かす)
 激しい描写や天皇批判などから、反日、売国漫画だとの批判もあるのと同時に、原爆の悲惨さを訴える漫画、平和を考える漫画としての評価も高く、自分の思想的立ち位置によって大きく評価が分かれるようです。

 私がこの漫画を読み、アニメを見たのは小学生。過激な描写が頭から離れず、漫画とアニメを観た後は数日にわたり睡眠中原爆、戦争の夢にうなされました。影響をもろに受けたわけですが、劇画調の絵が怖かったものの、子ども心に原子爆弾なるものは絶対、二度と使われるべきではないということ、人の命がこうも容易く失われていくことに対する嫌悪感を覚えました。反日的漫画という指摘がある部分は、恐らく私が幼すぎて理解できていなかったと思われますが、「反戦」意識のほうが強く残り、すっかりそのころにはコスモポリタン的な考え方が移植されたように思われます。このような感じ方をしたことはある種の遠因で、高校時代は、図書館にあったモザンビークの内戦について書かれた書籍に影響を受けました。その時は、片田舎の学生でNGOなる横文字のよくわからない職業が存在するとは思っていませんでしたが、それら図書の影響で自然と今のような職業を選択するように押し流されていったように思います。

 今回の一件、私はなぜ今こうしたことがニュースになるのか?こうした議論は作品の古さから今に始まったことではなかったはず。むしろ、こうした閉架図書とするように苦情を送った人、それが受け入れられた地域もあったこと、この文脈に注目すべきだと思いました。

 私と同じ世代でも同作品を読んで、左翼的だ評価している友人たちもいましたが、それは読んだから言えることなのではないかと思います。批判した友人たちも読んだのは子ども時代だったようです。そして、のちのちそうした評価をするのは、それはそれでよいのではと思います。

 しかし、結果論としてかえってこの漫画を知らなかった世代にも知られるようになったのではないかと思います。

 

 


2013年8月6日火曜日

若手ムスリムによるボランティア・NGO活動

 フィリピンでは、残念ながらまだムスリムに対する差別や偏見などがあるようです。勿論、ムスリムに限らず、少数民族に対する差別もいまだ存在しますが、夫の研究の関係で主にムスリムの人たちの首都圏の暮らしに触れる機会がありました。学生寮では、ムスリムと名前などからわかると入居を断られたり、タクシーの乗車を拒否されたり(マニラだと、ムスリムでなくてもドライバーの都合で乗車拒否ということがしばしありますが!)、就職でも有利ではないという話をしばし聞きます。

 差別、偏見故に彼らの存在は、特にカトリックが多数を占めるマニラでは影が薄いのかと思いきや、そうした事情がありつつも非常に活発に活動するムスリムの若者たちがいます。彼らによって立ちあげられたグループのいくつかに出会いましたがそのひとつ、GroupAid。基本的にはNGOをサポートするNGOです。サポートの内容は、開発プロジェクトのためのアドミニストレーション機能強化のためのコンサルタント、アドボカシ‐(提言活動)のためのネットワーク推進、教育的活動の企画・立案・実行など、サポート事業にとどまらず、自らもプロジェクトを実施している団体です。

 出会いはFacebookで、私の旦那がムスリムの人たちを研究のためにインタビューしていく中で、出会いました。コアのメンバーたちは、ムスリムの若手で様々な分野で活躍する人たちをつなげる、Young Moro Professionals Networkという団体に所属しており、積極的な提言活動、とくにムスリムミンダナオ地域での和平プロセスに対して強い関心を示し、時あらば政治家や関係者を招いてのディスカッションなども行い、参加させてもらったことがあります。


 GroupAidの彼らのオフィスを訪問し、オープンなメンバーたちにすっかり居心地がよくなってしまった私たち夫婦は毎週金曜日に彼らのオフィス(あるメンバーの自宅)で行われるムスリムの人たちのためのコーラン勉強会などに参加させてもらいました。コーランの勉強会は、GroupAidのオフィスで行われていましたが、GroupAidの加盟団体の一つであるNurFactoryが主催していました。イスラム教徒としての成長を促す企画・勉強会などを企画・実施し、さらにボランティア活動も行っています。彼らの勉強会に参加し、ディスカッションを通じ、また飲み食いを共にしながら、本で読んで知る以上に実際の彼らの宗教的慣習の一部に触れ、雰囲気を多少なりとも感じることが出来ました。毎週金曜日の勉強会は、団体の活動そのものというわけではありませんが、学びが多いものでした。

子どもたちとゲームを楽しむ若手ムスリムボランティアたち
コアメンバーの女性は、自分の自宅を開放し、ムスリム女子を呼び泊りながら夏合宿のようなものを催したり、断食明けの催しであるイド・アル=フィトルにも招待してもらったことがあり、子牛一頭の丸焼きや、ごちそう、皆で祝うそのムードにコミュニティの温かさを感じました。ちなみに昨年は、イド・アル=フィトルはフィリピンのアクション俳優、ロビン=パディリアの自宅で行われ、ミーハーな私は、一緒に写真をとってもらい、はしゃいでしまいました(汗)

 現在はコアのメンバーの1人はARMM(ムスリム自治区)の知事の推薦を受け、ミンダナオ島、コタバト市にあるARMMのオフィスで働いています。また、他のメンバーも政府系の機関で働いており、それらのネットワークを生かしながら、積極的に提言活動を行っているようで、今後の彼らの団体と何らかの形で関わり、活動できる日をここオランダで楽しみにしています。

 

2013年6月17日月曜日

ミンダナオ島、平和教育事例紹介:Peace Village Residential Experience(平和村居住体験)(3)

[プログラムの内容]
Shower of Pace(平和のシャワー)
 子どもたちに印象深かったプログラムを挙げてもらうと、このプログラムを上げる子どもたちが多かったです。4日間のキャンプは、このプログラムから始まります。どこからともなく放水車がやってきて、子どもたちがそれを浴びるという、驚きの集団朝シャワーです。これがプログラムとされ、平和のシャワーと冠する理由は、水は多くの宗教で汚れを荒い流すとされているためと言います。あらゆる偏見や怒りなどを洗い流して新たに一日を始めることを説明されます。4日間は皆でシャワーをしますが、自宅に帰ってからもそう言った気持ちで朝のシャワーを浴びるようにといったアドバイスを受けます。
 元々は、平和村の水がキャンプ開催中に故障したため、放水車を呼んだそうです。放水中にホースから水が漏れて回りに向けて噴射し始めると、子どもたちが喜んで駆け寄って、楽しんでいたそうです。その様子を見て、以降は意図的に放水車の水を用いてシャワーを浴びるようにしたといいます。

 日本人からすると中々刺激的な始まりですが、 子どもたちが笑顔で駆け回る中、朝日に放水車からの水が反射して虹が現れ、美しく印象的なプログラムでした。

Peace Parade(平和パレード)
平和村で重要な要素は、子どもたちが楽しい思い出と平和のコンセプトを結びつけて思い出せる
こと。地域の高校や、小学校、先生たちも仮装して、パレードをします。事のほか先生が忙しい合間を楽しめる行事のようにも見えました(笑)けど、先生が楽しむのも大切ですよね。 


KIDs say no to gun(暴力への否定)
説明を追加
子どもたちにこれまでクリスマスや誕生日にもらったおもちゃの銃を持ってきてもらい、それをフィリピン政府軍の人が渡す苗木と交換します。命を破壊する象徴である銃を命の象徴である苗木を交換し、平和を植えるということを象徴的に行います。
集めた銃は、皆で破壊します。子ども版のDDRのDisarmament(武装解除)のような様相です。

 フィリピン政府軍に関わってもらったというのは非常に重要だと思います。彼らの途中で行なったレクチャーや彼らの環境に対する取り組みは、セキュリティの問題も織り交ぜながら説明するため、子どもたちには難しすぎ、レクチャーから学びづらかったのは残念でしたが、ユニフォームを着た彼らがセレモニーに参加するというのは子どもたちに良い意味での緊張を与え、よかったのではと思います。
 
 同日夜の式典の後は、政府軍の中のバンドが教員向けライブを開催していました。彼らもお祭りモードを彼らなりに楽しんでいたようです。

Pledge to Peace(平和の誓)
 KIDs say no to gunの後は、皆で暴力行為を否定し平和を作る担い手になることを誓う、手形を押すセレモニーがあります。彼らが各地域で、平和なコミュニティを作る担い手となって欲しいと願うばかりです。

Meditation(瞑想)
 タイのNGOが来て、特に教員に対して瞑想のトレーニングを行いました。先日書いたとおり、先生もそして子どもたちも瞑想を行っているため、初めてではないものの、今まではインターネットを通じて行っていたものを僧侶の直接の指導を受けて行うというのは初めての試みであったようです。
 
 後日談ですが、今まで子どもたちはインターネットを通じて僧侶から指導を受け、その姿を見ていました。しかし、本物の僧侶の登場に驚きと興奮で、僧侶(外国ではジョンと名乗っているそうです)が歩くと子どもたちがついてまわるという現象がおこったそうです。子どもたちとはいってもタイの僧侶は女(の子)と接触しては行けません。その理由を聞いた数名の男の子がボディーガードをかって出たと言います。

[感じたこと]
 プログラムの意義付も重要ですが、教育省トップを含め教員が子どもたちが楽しい思い出を作って帰れるように気遣っていたように感じられました。

外国人が訪れた珍しさから、ラジオ番組に出演することに
こういうパターンって多い気がする(^^;
この平和村のキャンプと並行して、リージョンの代表教員を集めて平和教育を進めていくための研修が行われていました。子どもたちへのインタビューやプログラムへの参加で忙しくしていたためそちらの方に中々顔を出すことができなかったのが悔やまれますが、子どもたちのみならず教員にトップダウンの形で研修が行われているというのは効果的であると思われました。

 また、平和教育などのプログラムも大切ですが、学校の勉強も怠れない、また教員の質も上げなければならないという課題があったそうですが、子どもたちの学校の出席率とリージョン全体の成績が上がったといいます。成績上昇の明確な理由は不明ですが、教育省のトップがそこにも意識を払っていたようです。


 このプログラムを精力的に勧めていた教育省トップが昨年で定年となってしまいました。悲しいことに、トップが音頭をとって勧めていたことは次期のトップでは継続されないことが往々にしてあります。その理由は、内部政治であったり、ライバル意識など人間関係に関わることが原因であると聞きます。また、こうしたプログラムは更なる人的又は予算の投入が必要であるため、熱意も重要な要素です。

 継続を望み、プログラムの中のセレモニーでは州知事を呼び、州知事に象徴的な鍵を渡すというセレモニーも行われました。一部からは、平和村キャンプが政治化したと非難される一つの理由となったようですが、存続をかけての可能なことは在任中に行っておきたいというトップの意思表示のように思われました。公的な場で約束したこと、平和村キャンプをサポートする-という知事の約束は参加した学生、教員、教育省のスタッフや私などの部外者なども聞いた訳で、これをあっけなく反故にはできないと教育省の当時のトップは踏んでいたと思います。

 平和村が良いのは教育省が教員を研修に送ったり、専門家を呼んだりしながら外の助けを借りながらも、自らの責任でプログラムを行っていることがとても重要なポイントだと思いました。
 これまでいくつかの地域で、外部の助けでマニュアルまで制作したものの使われないまま本棚で埃をかぶっているという話や、研修には出たけど現場レベルでの実施に至っていないという話をしばしば耳にします。そういう話は非常にセンシティブな問題で、たまたま知り合いが勤務する政府系組織で、ミンダナオ島の平和教育プログラムを作成したといわれるものの、活用されていませんでした。そういう彼らに事実であっても「マニュアルが使われていない」と言ってしまえば、角が立ちます。しかし、彼らの作ったプログラムの話しは現場レベルでは一度だって聞いたことがなかったのが事実。(部外者として、そこは議論を争いません。)

[学んだこと]
 先日紹介したPeaceTechは大学生や社会人向けであったため組み砕きつつも理論的な説明を要所要所にお織り交ぜながら、ワークショップで深い理解を促しつつも知識的理解を参加者に要求しました。しかし、この平和村のキャンプでは、子どもたちが体験をベースに、より感性的にな学びを平和のイメージと結びつけることにポイントが置かれていたように思います。勿論、それらの体験から子どもたちは自らの言葉から経験を語り、語る中で学んだことの言語化が行われていたように思います。アプローチ、雰囲気作り、プログラムの構成、そして元気いっぱいの子どもたちを飽きさせない仕組みが随所に見られ、今後プログラムを作る際の参考となりました。
 
 
 
 
 

 

 


 





2013年6月16日日曜日

ミンダナオ島、平和教育事例紹介:Peace Village Residential Experience(平和村居住体験)(2)

 [平和村居住体験のインパクト調査の時の様子]

 平和村の開催に向けて10月25日に現地のコーディネーター、地元教育省の方との打ち合わせがあり、早めの現地入りをしましたが、出発の準備が忙しい10月19日にはミンダナオ西部のバシラン島で起こった政府軍とモロ・イスラム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front: MILF)との武力衝突、それから立て続けにザンボワンガ、そして私の目的北ラナオにも武力衝突が飛び火をしたところでした。随時現地の情報をアップデートしながら慎重に現地出発の如何を決定しました。状況が滞在中に悪化したらすべきこと、撤退先などを話し合い可能な限りの準備をして現地に向かいましたが、現地に行けば一部の地域をのぞいてはごく平和であり、武力衝突が比較的近隣で起こっているのか疑われるほど平穏でした。

 カパタガンへのアクセスですが、飛行機でマニラからオザミスへ向かいます。オザミスからはフェリーと車です。車からは、マニラで見かけるのとは異なったトライシクルのスタイルが見られます。
オザミスの位置するのはお隣の州のミザミスオキシデンタル、そこからフェリーで対岸の北ラナオ州のTubodまで渡ります。15分ほどの船旅を終えて、車で一時間ほど移動して3つ目の町がカパタガンです。













内容盛りだくさんのプログラムの中身は以下のようになっています。
プログラム

1日目(10月27日(木))
 参加者の到着、オリエンテーション、アイスブレーク
2日目(10月28日(金))
 ワークショップ、異なる宗教ごとの祈り、ピースパレード、オープニングプログラム
3日目(10月29日(土))
 フィリピン国旗についてセレモニー、ワークショップ(暴力によらないコミュニケーション)、サービスラーニング、コミュニティサービス、感謝祭
4日目(10月30日(日))
 KIDs say no to gun、平和への誓、瞑想






[平和村に参加する子どもたち]
 多くの子どもたちは、年に一度のイベントに参加したいと言います。しかし、宿泊場所や移動手段の確保などを含めて参加者は北ラナオ州の各小学校から2~3人選ばれています。選考の基準は各学校によって異なりますが、学校によっては成績な優秀な子どもであったりしますが、一番重要なのは学校内でのリーダーシップと平和に対する理解、とある地域の校長先生は選出の基準を教えてくれました。参加対象者は小学校の高学年4~6年生ですが、1〜3年生であっても両親の承認があり、兄弟や姉妹の同伴で参加は可能になります。
 参加する学生たちは数ヶ月かけて自ら貯金をして、参加費と交通費を拠出します。勿論、送り出す学校側や教育省の何らかのサポートがあるようですが、基本的には学生がお金を出す。そうすることで、継続性の担保・プロセスを通じて子どもたちが何かを学ぶと言います。


[宿泊場所]
 平和村キャンプ期間中に宿泊し、またワークショップを行う施設が敷地内にいくつか建っています。子どもたちは学校ごとに宿泊しています。建物は各地域で寄付を募り、建てたようで、作りと規模は大体同じですが、内部の飾り付けなどは地域ごとの特色があります。

[子どもたちの到着]
 到着時間を前後して、子どもたちがジプニーや小型のワゴンやトラックで続々と到着します。残念なことに政府軍とMILFとの武力衝突があった地域の子どもたちは安全面への配慮からキャンセルということでしたが、遠くは車で4-5時間ほど距離から来ている子どもたちもいました。子どもたちは、キャンプにワクワクで、長距離移動で疲れも感じさせぬほど、到着早々から元気いっぱいでした。

[子どもたちとの交流]
 今回は子どもたちへのインタビューやプログラムのインパクを計りに来たのですが、やはり子どもたちと交流する時間を持ちたいと思い、早速到着したばかりの子たちを訪ねに彼らの宿泊場所を訪問しました。何人かの子どもたちは、恐らく初めて出会うであろう外国人に興味深々、英語とタガログ語を交ぜながら話しをします。何か日本を紹介できることをということで、持っていった折り紙で鶴の折り方を即興で紹介しました。彼らも照れながら、自分たちのことや宿泊場所の飾り付けなどについて説明をしてくれました。

 兎に角、元気いっぱい。明日から始まるプログラムにワクワクして、エネルギーが有り余っているようでした。

2013年6月15日土曜日

ミンダナオ島、平和教育事例紹介:Peace Village Residential Experience(平和村居住体験)(1)


2011年10月27日(木)~30日(日)、Peace Village Residential Experiences(平和村居住体験、以下平和村あるいは平和村キャンプ)の調査を行うためにフィリピン、フィリピンミンダナオ島北ラナオ州のカパタガンに行ってきました。平和村とは、フィリピンの第10リージョンの教育省が主導して行なっている年に一度の小学生のための平和イベント、一連の平和教育の教育パッケージでありまた、平和村のイベントが行われる場所をさしますが、平和村居住体験は泊りがけの平和イベントの名称です。イベントではワークショップあり、コンサートあり、出し物、花火等々何でもあり、小学生高学年の子どもたちはイベントを楽しみつつ、他宗教・文化に属する新しい友だちをつくり、平和について多くを学んだ期間となったようです。私自身は幼少期から他宗教への寛容を促す活動の重要性を今回の平和村の活動を通じて、一つの例として見ることができました。






 北ラナオ州は、フィリピンの首都マニラがあるルソン島に次いで2番目に大きな島、ミンダナオ島
の北部に位置し、幾度も政府軍とMILFの衝突の舞台になってきた土地です。滞在期間中、調査等々に同行してくれた地元の小学校校長はMILFの人質となった経験をしたと話してくれました。人口は約54万人、言語はセブアノ語とマラナオ語が話されており、クリスチャンが75%、ムスリム約20%、その他5%が先住民族とされています。ムスリム自治区(ARMM)外での平均的な人口構成比だと思います。州知事はフィリピンで当時最年少であるマホメド・ディマポロ氏が州知事です。フィリピン国内ではバギオの寄宿学校、そしてアメリカで学んだエリートで、イスラム教徒です。
 紛争と望まぬままにも同居してきたような歴史を持つ土地であるが故か、平和への強い思いを教員、イベント関係者から感じます。しかし、過去の歴史からミンダナオ島外から移住した主にキリスト教徒と人々と長くこの地に住む先住民族とムスリムの人たちにはお互いへの不信感があります。ムスリムの人たちは学校に子どもを通わせるとキリスト教化すると恐れ、一方のクリスチャンはムスリムが暴力的であると認識し、更には彼らの文化的、宗教的様式を知らないために見下したり、必要以上に避けていたといいます。

 平和村では、子どもたちが、交流を楽しみながらも平和について考え、学び、異なる宗教・文化を持つ人たちに対する理解と寛容を促します。そして、暴力を許容しない文化的素地を作っていくためにプログラムもこれまでの経験から工夫と改良を重ねて来ました。過去7回の取り組みの中から、レギュラー化した活動があります。Shower of Pace(平和のシャワー), Peace Parade(平和パレード), Service Learning(サービスラーニング), KIDs say no to gun(暴力への否定), Pledge to Peace(平和の誓), Meditation(瞑想), Non-violent communication(非暴力的対話のための研修)などです。今回はじめての試みは瞑想の時間をイベントに組み入れたことです。タイからPeace Revolution(ピース・レボリューション)というNGOが参加し、瞑想を教員に経験してもらうようにしているそうです。セッションはPVRE期間中2回ほど持たれました。PVREの中核的な教育省の平和教育推進しているスタッフがタイで実際にピース・レボリューションの研修に参加してそれを平和教育に組入れています。オンラインで小学生たちも瞑想のやり方を学んで実践していると聞きます。

 現在は教育省主導の年間行事のひとつとなり定着しましたが、元はリージョン10の教育省の当時の監督官であるDr.Mutia(ムチャ)さん着想と経験から始まったものです(ムチャさんは昨年定年されました)。5年前、マニラのトンド地区と北ラナオ州の若者との文化交流から、文化も住む場所も異なる彼らの交流がお互いにとって大きな学びとなり、刺激になったと経験を見て、ラナオ州の学生たちを交流イベントを考案し、そのイベントで学ぶ要素を通常の授業にも組み入れたと言います。
 
 日本の殺人発生率は0.5%(2009年調べ)、第二次世界大戦が終了して60年以上。私の世代は平和の時代を生まれ、安全な世の中を生きてきましたが、一歩日本から出れば暴力が身近にある中で生まれ育っている子どもたちがいるというのは何とも切ないと思ってしまいます。事実だけど、事実で終わらせないために行われている取り組みです。
 

2013年6月14日金曜日

フィリピン市民団体の事例(1) テクノロジーを用いて平和を推進する PeaceTechの挑戦 その4

 座学でモジュールの1〜3までを終え、モジュール4のプロジェクト立案の手順とスキル、5のリーダーシップトレーニングを1泊2日の日程でヌエバエシハ州のキャンプ場にて行いました。野外のワークショップは屋内ではできない様々なアクティビティをすることができるため、参加者のみならず企画する側もワクワクします。

会場に到着したら腹ごしらえ、バナナの葉をお皿にして皆で文字通り「一緒に」ご飯を食べます。
 バナナの皮に盛られた食事を手づかみで、参加者同士肩を寄せ合いながら食べます。個別のお皿に盛られた料理をスプーンとフォークで食べることに慣れている参加者は困惑しつつも和気藹々、手をご飯粒だらけにしながら食事と会話を楽しみました。





食事の後はチームビルディングのアクティビティをいくつか行いました。そのうちの一つで面白かったアクティビティは、縄をくぐって反対側に通り抜けるゲーム。
 二本の木の間に、蜘蛛の巣のように縄を貼り、参加者がその縄に触れないように反対側に通り抜けるのですが、同じチームメイトが通った穴は通り抜けることができないため、チームで相談して、身体のサイズにあった穴を選んだり、またチームメイトが足台になり、反対側でも支えながら協力して通り抜けます。
 万が一身体の一部が触ってしまった場合は、チーム一同でゴキブリがスプレーなどをかけられてもがいているような、仰向けで手足をバタバタさせるポーズをとります。
 何ともゴキブリポーズが間抜けなのですが、皆でやれば恥ずかしくない(笑)
夜は、目隠しされた参加者同士がお互いに肩をつかまりながら、幾人かのリーダー(すでにトレーニングを終えて、リーダー的立場でサポートするボランティアスタッフ)のサポートを受けて、いくつかのトラップをクリアしていくワークを行いました。
 目隠しで見えない中、手を引く相手への信頼、ゴールするという信念が試されます。トラップは、平均台の上を歩いたり、金網の下を四つん這いになって這ったり、タイヤのある場所を転ばないように歩いたりと大忙しです。日本でこういうことを行ったら、洋服が汚れる、あるいは危ないと不満が出るのではないかと思ってしまいましたが、ここはフィリピン、皆が楽しめて終わりよければ全てよし・・・でしょうか。

 これを終えると、キャンプファイヤー。そこでは、参加者が学びを今後の生活でどのように生かしていくのかを誓い、またワークショップで築かれた絆を強くしました。

 翌日は、最後に残ったプロジェクトの立案の方法のレクチャー。特にPeaceTechとしてのオリジナルなプロジェクト立案のレクチャーではないもののポイントを抑え、企画立案の助けになるコンテンツの構成です。
 プロジェクトのサイクル(計画-実行-振り返り)毎のポイントと注意点をあげます。自らボランティア活動やクラブなどで取り組んだ経験がある人はわずかであるため、質問は多くはありませんでしたが、キャンプ後にチームでプロジェクトを作るため、みな真剣に聞きます。

 プロジェクトは始めるのは容易いのですが、どのような結果をいつまでに出して、撤退するのか、そこが難しかったりします。そのようにして生まれてはいつの間にか消えたプロジェクトをいくつか見てきました・・・ので、参加者たちが問題にフォーカスした、背伸びをしすぎず、しかし十分にやりきれるプロジェクトを始めるようスタッフともに見守ります。

後日、何度かの参加者によるミーティングが開かれ、プロジェクト大枠が決まり、実行となりました。参加者の多数は大学生であるため、お兄さん、お姉さんとして高校生にゲームを楽しんでもらいながら、チームワークとリーダーシップを学んでもらうという1日完結のワークショップを作り上げました。高校生からすると歳が近いお兄さんお姉さんとともに遊び感覚で学べるワークショップを存分に楽しんでいるようでした。

 フィリピンの夏休みの間に行なった約1週間のワークショップ。その為、参加者の大半は学生で、一部は社会人、新社会人でした。学部の専攻や専門分野はそれぞれでしたが、平和学のエッセンスを噛み砕いて、演劇ワーク、ディスカッションを多く取り入れながら、気づきが多く、実践できる学びの場を提供できるよう心がけました。
 スタッフ側として、参加した学生・社会人がそれぞれのコミュニティで今回の経験をシェアしてほしいと思いました。フィリピンではまだまだ、ムスリムの人たちに接する経験が少ないためか、メディアなどの情報から彼らに対する偏見があるように思います。参加したムスリム・クリスチャン双方の参加者が両者の架け橋になればと思いました。

 PeaceTechではこうしたワークショップの他、大小規模のビデオコンフェレンスの実施、インターネットディスカッションなどを定期的に行っています。ディスカションのほとんどはフィリピノ語で行われるため、参加を希望する場合はフィリピノ語の基礎を知っておくともっと活動を楽しめます。

PeaceTech
Mobile Phones : +63 918 947 2690
Address : Unit 212 Tech Portal, UP-Ayala Land technohub, Commonwealth
1101 Quezon City, Philippines
Website: http://www.peacetech.net
Email: peacetech.net@facebook.com
Facebook: https://www.facebook.com/peacetech



2013年6月13日木曜日

フィリピン市民団体の事例(1) テクノロジーを用いて平和を推進する PeaceTechの挑戦 その3

 第3日目はモジュール1の続きで、ステレオタイプ、偏見、差別について学びます。どちらかというとコンセプチュアルな部分でややもすると、理論的になり、退屈になります。参加者を飽きさせず、わかりやすく説明するのにファシリテーターの手腕が問われます。

[差別・偏見について参加者の共有]
学問的分類では、文化人類学や社会学で扱う範疇を行き来しながらSocial categorization、Social identification、Social Comparison、Social Dominance Theory、Contact Hypothesis、Ethnocentrism、Cultural relativismなどのコンセプトについて説明し、午前中の時間を使って一気に駆け抜けました。異なるグループでも接触する機会が増えるにつれて、偏見の要素が軽減すると言います。夫の研究で、ムスリム・クリスチャンの学生でクリスチャンの学生がムスリムの学生の友人、あるいは逆の場合でも友人を持つことで、異なる宗教を持つ人に対する態度によい意味での影響があると言います。
 これまで色々なNGOがフィールドの経験から、インターフェイスが異なる宗教間の理解促進に有効だとして、活動を行ってきましたが社会学の調査がある種の答えを与えてくれそうです。
 
 講義を受けて、自分が差別された経験、被差別の経験を話し合う場を設けました。差別された経
験、した経験をどのように克服したのか、ムスリムの参加者は、タクシーで乗車拒否、寮の入寮が許可されなかった等々の経験を持つものも数人おり、それに対してはイスラムの教えにある寛容さと忍耐でもって克服するといった話などが聞かれました。
 差別された経験を話すのも難しいのですが、逆に差別した経験を話すことはもっと難しいように思います。そのためか、もしくは参加者がそういう経験がないためか?差別された側の話を聞くこととなりました。ただ、差別や偏見が参加者の生活とは遠くはないこと、どう行動すべきなのか等改めて考えているようでした。

[差別と偏見のワークショップでの学び]
 交友関係を持つことで、異なるグループの人同士の心理的な距離が縮まることを理解しましたが、それとは別に近いものほど交わるのが難しいと思いました。つまり、クリスチャンであれば、クリスチャンでも教派が違うこと、違う習慣を持っていることに対して反発があると感じました。また、異なる宗教の和解は主題にはなるけど、クリスチャン内部での相互理解、異なる教派での理解は起こらないと思ってしまいました。ここオランダでは、プロテスタントによるカトリック教徒への反発、ネガティブな発言があると聞きます。

モジュール2はPeaceTechの真骨頂、技術を用いて平和を推進する。その為のツールを学んでいき
ます。ここでのツールは主に、ビデオ・写真・ブログの技術論です。

 PeaceTechのスタッフであり、ブロガーそしてアニメコスプレの大好きな(笑)スタッフによるブログ講座。ブログの歴史から、ソーシャルメディアの活用方法、そしてテーマを決めて、適したメディアを選び、書きはじめる一般的な内容でしたが、重要なことは皆が情報の発信者になれるということ、そして、思い立ったら始められるということでした。写真は、どの瞬間を捉えるのか、どういうメッセージを見るものに与えたいのかなどはなされました。レクチャーがメインでしたが、このあとブログなどを始めた参加者もいたようです。

 ワークショップで重要なのは、コンセプトを理解することも重要ですが、全体のデザインとして参加者が日常的にできることを提案し、参加者がワークショップ終了後それらを実践して、その経験を積み重ねて行けるかだと思います。なので理論とともに技術を学べるというのはよいことだと思います。
  
 こうしてブログを書いているうちに、オランダで平和教育のワークショップに関わるかもしれなくなりました。もう一度、自分で作ったモジュールの見直しと、事例の整理をしなければと思います。







 

2013年6月12日水曜日

フィリピン市民団体の事例(1) テクノロジーを用いて平和を推進する PeaceTechの挑戦 その2

PeaceTechのformation workshop第1日目

お祈りで始められたワークショップ
Formation workshopとは若者(高校生~大卒30歳ぐらい)を対象に行われる平和教育のコンセプトに沿って行われるワークショップで、特にムスリムとクリスチャンの相互理解の推進のため行われます。ワークショップやキャンプなどがセットになっており、それを通じて平和教育の基本概念に触れる他、普段あまり交わることがない異なる宗教的背景を持つ参加者が親しい関係を築けるということも狙いです。

 ワークショップは1週間かけて行われ、その内容はモジュール1-5に分けられており、Moduleごとにテーマがあります。

モジュール1のテーマは平和の文化の創造(Creating Culture of Peace)。平和教育のコンセプトに沿って、平和、紛争、平和の文化の基本的な概念について学んでいきます。
モジュール2ではテクノロジーを用いて平和を築く(Building Peace through Technology)、PeaceTechの真骨頂であるテクノロジーを使って平和を実現するというのを講義と技術的な側面から学んでいきます。技術的な指導、どのようにブログをはじめるか、カメラの撮り方、ビデオの撮影の仕方等々を学ぶ。
モジュール3は基本的なファシリテーションの技術(Basic Facilitation Skills)を学びます。ワークショップの後はグループとしてプロジェクトを持つことを推奨しますので、どのようにワークショップを進めるのかを学びます。
モジュール4で、プロジェクト立案の手順とスキル(Project Development and Management Skills)を学びます。このワークショップの後プロジェクトを立案し、団体のサポートの下で実施して行くのは彼ら参加者です。どういった問題にフォーカスして、どのような手法を用いるのか、評価も含めての話しとなります。
モジュール5がリーダーシップトレーニング。これは屋外で、キャンプを通じて楽しく遊び楽しみながら学びます。

フィリピンの学生が世界を見たとき・・・
どう捉えるか?
モジュール1
 朝の8時半からレジストレーション、両宗教(ムスリム・クリスチャン)の祈り、自己紹介~からワー
クショップが始まります。第一日目と二日目にわたってモジュール1を行います。今日は基本となる平和についてのコンセプト、平和の文化について学び明日は紛争の分析、どのようにそれを取り扱うのか等を学んでいきます。


















 私と旦那は平和についてのコンセプトを担当しました。
各自が考える「平和」を絵と、彼らの言葉(フィリピンの多言語環境を考慮して)で表し、説明してもらいました。
「平和」そして「紛争」は人生の中で誰もが異なる環境で、自分自身の環境として持っているので、定義に間違いや正解はありません。のちに平和学で使われている平和の定義について説明をしましたが、補足のみにとどめました。






このワークショップから、いくつかの質問をもらいました。

1. 直接的な暴力と間接的な暴力というものはあるのか。

2. Spiritual Violenceなるものはあるのか。

3. 暴力というものは意図的か、それとも意図的ではないのか。

4. 口頭(コミュニケーションによる)暴力と直接的な暴力(身体的)な暴力はどちらへの対処がより難しいか。

 

 モジュール1の続き、ワークショップ二日目は、私の担当である紛争の分析(Conflict Analysis)か
ら始まりました。まず、とある団体で起こったとある問題(紛争)の一局面を見せて、そこから何に気がついたのか、そして少しだけ問題の理解(実際何が起こっているのかを分析する)のために平和学で使われている理論/考え方を紹介して、その後に解決を参加者に見つけてもらうという流れで行いました。賞味一時間半。

 今日の対象者である、主に大学生が直面するであろう課題、何かの団体に所属していて、お金を余分にもらった/寄付30,000ペソ、それをどうやって使うのかというところで意見が相違。当事者は団体の長とそれを補佐する事務局員、その二人を中心に話がだんだんエスカレートしていくという筋。団体の長は新しいパソコンの購入を主張。事務局員はスタッフのトレーニングを主張。

 PeaceTechのスタッフに参加してもらって劇をしたのですが、昨日の打ち合わせ以上にアドリブでしゃべるわしゃべる(笑)。台本ではセカンドパーティが介入するところでしたが、介入のタイミングを見失うほど。セカンドパーティが入ってきて、やれ団体の運営の仕方が悪いだの、なんだなと話もそれていって、そこでなんとか一区切り。

 意見の違いや、実際は団体の長も事務局員も団体の長期の益を見ているなどなどの気がついた点が上げられました。問題は、異なる欲求をみたせる十分な資源がないこと。もしかしたら、ジェンダーの問題(女性が積極的に意見を言えない状況)が絡んでいるし、歴史の問題も絡んでいるかもしれないので紛争にからむコンテキストをちょっと説明しました。

 紛争分析では当事者のポジション、関心、ニーズに焦点を当てていくツールを用いて説明。ポジションは実際に彼らが何を言ったのか。関心は彼らが本当にほしいのは何か。ニーズは、彼らが本当に必要としているのは何か。

 ポジションは上記のとおり、長はパソコンの購入、事務局員はトレーニング。関心は、新しいパソコンを買うことで、作業の効率化を図る。トレーニングを機会を得てスタッフのスキルを上げる。ニーズは双方ともに実は団体の発展を促すためである。表現の方法は異なれど、お互い団体のためを思っての提案であることに行き着きます。

 その後参加者に実際にそのスタッフが演じた役に成り代わって、せりふを変えて、紛争に対する態度を変えて解決に導くように演じてもらいました。はじめはまったく解決につながらなかったものの次第にお互いが本当に欲するものが見えて、新たにドナーに働きかけて寄付をしてもらい一件落着?でワークを終えました。

 このワークはより参加者が経験している、あるいは日常で直面する問題であることが肝。学生対象に夫婦問題を解決する劇とワークをしてもらうことでもしかしたら、問題に近すぎる人たちが考える以上に創造的な解決方法に至るかもしれませんが、リアリティにかけてしまう場合があります。

 モジュール1を一通り終えて、ある程度の実践を伴った理解に行き着いたように思います。

2013年6月11日火曜日

フィリピン市民団体の事例(1) テクノロジーを用いて平和を推進する PeaceTechの挑戦 その1

2011年の話。カナダのジャーナリストが立ち上げた、フィリピンの団体PeaceTechのワークショップをお手伝いしました。PeaceTechは、平和(Peace)と技術(Technology)を掛け合わせて作られた団体名で、その名の通り技術を用いて平和を推進する事業を特にワカモノ対象に、フィリピンのムスリム(イスラム教徒)とクリスチャンとの相互理解を目指して、マニラと南部のミンダナオ島を結ぶビデオコンフェレンスを開催したり、インターネット上で時間を設定してのチャットディスカッションや、トレーニングなどを実施したりしています。

 この団体との出会いは私の初めてのフィリピン滞在の年にさかのぼります。仕事の傍ら、平和系の団体に片っ端から会っていた時に、ミンダナオ島とつないでビデオコンフェレンスを開かれるということで招待を受けたことに始まります。

 フィリピンで起こっている紛争はいくつかあり、その紛争の当事者も様々で、イスラム教徒による現在MNLF(モロ民族解放戦線)、アメリカでテロ組織として指定され、外国人誘拐をすることで有名なアブ・サヤフ、昨年に和平交渉が劇的に進んだMILF(モロ・イスラム解放戦線)、や近年過激化しつつある共産系グループNPA(新人民軍)とフィリピン政府との武力による衝突が今だに起こっております。イスラムの人たちは、フィリピンの南方部に住んでおり、前3つの団体と政府軍との衝突はフィリピンの南部で起こっていたため、彼らの住む地域は危険と言われ、またそれらニュースの故にムスリムの人たちに対する偏見や差別につながっていることは否めません。ムスリムの人たちへのタクシー乗車の拒否や、学生寮などでは入寮を拒否されるケースもあるそうで、ムスリム=怖い人たち、というイメージがあるようです。

 PeaceTechのビデオコンフェレンスでは、南部に住むイスラムの人たちが紛争によって避難した経験、紛争後の生活の様子などを語ります。それをマニラの学生たちが聞き、質問をしたり、語りをもとにグループでディスカッションなどを行います。若者の理解度を測り、その後の行動の変容を知ることはできませんが、多くの参加者を集うことで、インパクトを持たせることができます。勿論、当初の目的、ムスリムは「怖い」と思っていたけど、彼らも紛争によって苦しんでいる人たちであるという理解と共感を引き出すことが出来たように思います。



私がお手伝いしたワークショップも同様に、ムスリムとクリスチャンの学生の混合で行い、理解の促進を促します。これまで、身近にムスリムの友人がいなかったというクリスチャンの学生もおり、彼らにとってムスリムの学生の視点や意見は新鮮なもののだったようです。勿論逆も然りですが、マニラのあるルソン島はクリスチャン人口比が高いため、イスラム教徒の学生もクリスチャンと机を並べ、共に勉強したりする機会がありますので、クリスチャンの学生がムスリムの学生と交わる機会よりは多いようです。ワークショップにアイスブレークゲームを交えながら、楽しみながらそして時には深く意見を交換し合う場も見られました。

<続く→ワークショップの様子>