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2013年11月19日火曜日

フィリピン台風-被災した実家を訪れた友人の話

台風で壊滅的なダメージを受けたタクロバンを家族の捜索のために訪れた友人がマニラに戻っていると連絡を受け、彼女とひと時お茶をしました。

彼女とは入学年が異なりつつも一緒にスキューバーダイビングを楽しんだり、お茶をしたりして頻繁に会う仲の良い友人。そのため、一週間前に彼女が家族の捜索のためにタクロバン入りをする話を聞き、驚きそして心底心配しました。

11月8日に直撃した台風から一晩、眠れぬ夜を過ごした友人は翌日にはタクロバン入りを決意、そしてつてをたどりアメリカの軍用機に乗り込んで現地りを果たしました。彼女の実名と破壊された彼女の実家はUSA TODAYに「Searching for loved ones in typhoon's devastation」でインタビューと共に掲載されています。医療品が積みこまれた軍用機から彼女は実家を目撃し、写真に収めています。

おりたつべき空港も流され、至る所ががれきの山。彼女の到着は比較的早かったため、回収されていない遺体も至る所にあり、道すがらそれらを見ました。公共の交通手段が機能していないために数時間歩いて生まれ故郷のタクロバンの生家に到着。骨組みのかろうじて残った家を見て愕然としたと同時に、その場にいた親族に家族の無事のニュースを受けました。

両親との再会、これまでにないほど強く両親をハグしたようです。私自身も昨晩、マニラに戻った彼女に同じことをしたので、生存の安否を気にしていた家族であればなおさらです。

家族の安否を確認して、どういうわけか友人の口から出来てた質問は「私の部屋はどこ?」、両親たちは大爆笑だったようです。上述の通り、骨組みのみが残る家には、家具が洗い流された後に外から入ってきた泥水、そして瓦礫が占有しています。家族が団欒を楽しんでいたリビングルームからは泥に埋もれた子どもの遺体があり、のちに近所の子どもが行方不明となっていたのでその子どもではないかとのことでした。

台風のその日、水は5メートルほどの高さまで上がりました。台風の当日両親は避難所には行かず、自宅で過ごし難を逃れたと言いますが、ある種これほどひどくはなるまいという楽観的観測があったように思います。湾岸都市、タクロバンもとりわけダウンタウンはその地理的な条件故に今回の台風の中幾度となく高波が異なる方向から襲いました。

家族の安否を確認した後に街を歩くと瓦礫の山そして遺体。中でも子どもを強く抱いたまま溺れた母親の遺体を見た時にはやるせない気持ちになったといいます。

生存者も瓦礫などで怪我を負い、国内外の医療チームが治療にあたっていますが、麻酔なしで簡単な外科手術を行わなければならないこともただあり、友人は家族を亡くし誰も付き添うものが居ない患者の手を手術中ずっと握っていました。

また、台風の高潮に襲われ家族の全てを失った8歳の女の子にも出会ったといいます。彼女は強風と高潮が収まるまでずっとヤシの木にしがみついていたといいます。

現在彼女の家族はマニラの彼女のアパートにて生活しています。家は破壊しつくされ、彼女の実家もそして街も復興にどれだけ時間がかかるのかわかりませんが、台風の巨大化そして進路が南に傾きつつある昨今、災害に強い街を作るのと同時に「地球の温暖化は本当に進んでいる」という友人の言葉の通り、温暖化の対策と個人・社会の責任を強く意識するものです。


2013年11月18日月曜日

ミンダナオPeace Camp (1) :全体の様子

10月31日から11月8日まで、フィリピン、ミンダナオ島、キダパワンで行われたピース・キャンプに参加しておりました。このピース・キャンプは特にIP(先住民族)、クリスチャン、ムスリムの若者をつなぐ、平和という観点から行われた人材育成のプログラムです。

実施団体はBinhi ng Kapayapaan. Inc(平和の種)、(以下ビンヒ)という団体です。代表は教育者/活動家(NGOワーカー)である、フィリピン人女性、私たちの間では母親的な立場であるためナナイ・アンゲ(Nanay Angge)、アンゲお母さん。彼女が、フィリピンの平和関係に携わる人を巻き込んで始めた活動です。ピキットのピースゾーンを作るのに尽力されたバート牧師も創設メンバーの一人です。元々はアレリアノ大学を母体としておりましたが、今は独立してNGOとして活動しています。

9日間の日程で行われた今回のキャンプは過去5年の集大成でした。通常このようなキャンプ/トレーニングは一過性で、一度参加したらそれ以降は参加しないのですが、3つのグループの若者の関係を強固にするため5年というタームを持ってキャンプやワークショップを実施してきました。今回は、これまで参加してきた彼らの「卒業」の時であり、代表も一歩退いて若い世代が代表の役割を担うことになる、まさに団体としても変化の時でもありました。数年間参加した若者は高校生であった者は大学生に、そして大学を卒業して、それぞれの専門分野で既に働いている若者のたちもいます。

フィリピン人はお話し好きで、大家族で育ったためか非常に人との関係を作るのがウマいのですが、地域性が強く一つにまとまるのが本当に難しいと言います。5年間をかけて徐々に束ねて行った様子が伺えます。

約50名の参加者は、キャンプ中仕事や学校の都合で早く帰らねばならない者や途中から参加する者もいましたが、それによって雰囲気が変わるというわけでもなく皆で和気藹々と過ごしました。

国道から見えるピースガーデン
キャンプのコンテンツは、歌や踊りなどの情緒的なもの、あるいは宗教的なもの、これまでのキャンプの中で彼らが作った儀式的なもの、知性よりはどちらかというと感性に訴えるワークショップ、そしてゲストスピーカーによる話、クライマックスがミンダナオで紛争を経験した地であるピキットでのピース・ウォークでした。

私はゲストスピーカーの一人として、広島の原爆の話、そしてどうやって平和活動に携わるようになったのか、先方からリクエストを受けた内容を盛り込んで話させていただきました。また、2歳の時に被曝し、若くして亡くなった佐々木貞子さんの話をした後に皆で折り鶴を折ったりもしました。

大まかなスケジュールは以下
10月30日マニラからダバオ、キダパワンの宿泊・研修施設へ移動
10月31日ミンダナオ島からの参加者と合流
      開始
11月1日オリエンテーション、キャンプへの期待、キャンプの歴史、ゲストスピーカー(1)「ミンダナオ和平プロセス」
11月2日ゲストスピーカー(2)「コソボの紛争」、ワークショップ「私の平和への旅路」
11月3日ゲストスピーカー(3)「原爆、そして平和活動」
11月4日ゲストスピーカー(4)「平和活動に携わる女性」、団体のこれからについてディスカッション(1)、リーダーの選出(投票)ゲストスピーカー(5)ピキットについて
11月5日ピース・ウォークの準備、
11月6日ピース・ウォーク、式典@ピキット、バランガイ・タケパン
11月7日団体のこれからについてディスカッション(2)、クロージング
11月8日リフレクション
11月9日移動(キダパワン-ブキッドノン)、先住民族のコミュニティでの儀式に参加
11月10日移動(ブキッドノン-カミギン)
11月11日~13日カミギン滞在

盛りだくさんの内容は現在振り返り消化しているところです。

それにしても、人が育っていくのは自分を含めて時間がかかるのだと改めて思いました。団体の名称通り、平和の種が播かれ芽を出したと言ってもいいかもしれません。その象徴が、クライマックスのピキットでのピースフォーク、NGO、地元住人、教員、兵士、警察も参加しました。「平和は達成可能」それを観たピキット出身の参加者が口にした言葉です。

平和にちなんだ試みは数多く行われていますが、平和の可能性そしてそのプロセスをフィリピンの若者が自分の事として感じるには十分な期間であったと思います。

※11月13日マニラに戻る予定でしたが、フライトのキャンセルのため、14日マニラに戻りました。


2013年11月17日日曜日

フィリピン台風被害の支援-何が出来るのか?

ミンダナオでの平和キャンプを終えて戻った後、キャンプを主催したNGOのミーティングに参加し、台風の被害を見聞きして受けた印象、あるいは親族との音信が途絶える家族への心配の思いを共有し、カトリック教会の呼びかけに応じて被災者への祈りをささげると同時に今後個人として、また団体として何が出来るのかを話し合いました。

会議参加者から聞かれた声
皆から聞かれた言葉は、驚き、悲しみ、痛み、しかし希望もあるといったものでした。会議を参加した大半の会議参加者が、Peace Campに参加していたため、インターネットあるいはテレビが見られる環境になって状況の深刻さにまず驚愕しました。家族、親族と連絡がつかないため心配する気持ちを抑えられない、あるいはテレビの映像を観て思わず涙を流したと言います。そして多くを失ったことへの痛み。しかし、困難な状況はこの個性ある地域に分断された国が一つの方向を向いてくきっかけではないかという声も聞かれました。フィリピン人は皆仲が良いので一つにまとまりやすいと思われがちですが、実際は古くから地理的な分断により独自のコミュニティを作ってきてきたため地域主義が染みついています。皆が同じ方向を向いて国を考えるチャンスなのだろうと考えたと言います。痛みを伴いつつもその起こった意味を捉えようとしている様子でした。

この間、政府の対応のまずさが批判の対象になっていますが、地域の政府を持って動く中央政府は地域政府に勤める役人自体が被災しているために出来ることが限られているようにも思われます。日本の震災の時もそうだったと思います。そうした状況で、政府の対応が十分ではないとどこまで言い切れるのか。それを予想して対応できるほどの資源も予算もあるのかも不確かであるため、私自身も含めて政府の非難より政治的意志の統一と動員がどこまで可能か、そしてそうなることを望む声が多く聞かれました。それと同時に海外からの迅速な支援に励まされるという声が聞かれました。

被災者への祈り
枢機卿タグルは、会議の行われた16日土曜日を追悼と希望の日として、祈りによる団結を呼びかけました。懺悔と瞑想、そして断食を呼びかけました。夜6時には教会の鐘が鳴り、一月前のボホールでの地震、そして今回のスーパー台風の被災者のために祈りを捧げました。
大きな災害が起こると宗教的意味合いと結びつけられる土地柄です。タクロバンを聖書のソドム・ゴモラの町に結び付け人々が話す声も聞かれます。また、他の宗教からはカトリックへの批判、教会の腐敗の故に罰が下ったという人もいるのだとか。今日の祈りの日がレイテ島の被災者たちを無言で糾弾するものではなく、個々人の深い内省に結びついたらと思っております。

何が出来るのか
個人、グループ、短期、長期の視点でざっくり話し合いました。詳細は来週のリーダーミーティング(なぜか私も投票によりリーダーに選出されましたので・・・)に持ち越しですが、以下がおおよその話し合いの結果です。

個人としてすぐに出来ることとして挙がったのは
-FBでポジティブなメッセージを拡散し、団結を呼びかけること
-寄付
-自分の生活習慣を変える

団体として出来ること
-サイコソーシャル(Psychosocial)、心理的手法を用いての被災者支援のためのボランティアトレーニングと派遣
-団体のメンバーに一日30分、夜の9時から9時半まで電気を消す、そして瞑想の時間を持つ

自分の生活習慣を変えると言うのは、台風の巨大化が地球の温暖化による可能性が高いため、今回の台風を警告として捉えて自分の生活を改めるということでした。環境活動家は、仕組みの変化の重要性を強調し、こうした個人の取り組みを軽視する傾向にあると思います。電気も留めておくことが出来ないので使わなくてもその分を発生させる仕組みがもう出来上がっている・・しかし、それらの事実を認識しつつも啓蒙的意味合いを持って30分の消灯など決めたわけです。台風を止めることは出来ないまでも台風をもしかしたら巨大化させないための温暖化への取り組みは、個々人としても社会として取り組まねばならないことだと感じます。なので被災者支援へのサポートも大切ながらも、環境問題にどう取り組むのか具体的な策の必要性を強く感じます。
瞑想の理由は、情報と物質に溢れるこの社会で衝動に抗らう力を高め、不安を軽減するなどの効果があるためです。シンプルに生活を営む一つきっかけとなるのではと思います。

最後に
寄付が何より有難いものの、台風が来るたびに対処的に援助を行っている状況に何とも言えぬ疲労感を感じます。自らも何か出来る道を探りつつも、地球そのものの環境の変化と捉えて、まずは自らの足元から考えるべきだと自分自身思った次第です。

懸念は、今は被害に遭った直後であるために世界的な注目を集めていますが、あと一カ月もしないうちに人々はこの災害を忘れさられることです。またタイミング的には年末年始、お金も必要になります。しかし、被害が甚大であったため、長期的な支援が必要になります。
寄付を考えている方にお願いしたいのは、少々待って頂くこと、そして一カ月、二カ月後に現地の人たちと直接のつながりを持つ団体への寄付して頂くことをおススメします。更に言うと、環境に優しい生活をして浮いたお金を寄付して下さったら嬉しいと思っております。温暖化が巨大化する台風の原因と訴えるなら(汗)その負の貢献をしている先進国や便利な生活を居住する都市部に生きる人々にも大きな非があるとも読みとれるのですが、それなら「罪滅ぼし」のためのお金よりも、原因に対応する形で少しでもお金が集められたらいいのではと思った次第です。

被災者支援ですが、缶詰もそうですが可能な限りローカルのマーケットで物資を購入し、現地の人に食事を準備してもらい、その代価を払う仕組みを作り、缶詰やインスタントラーメンなどで偏りがちな栄養、そして大量のごみが支援物資によってもたらされない援助を行っているローカルの団体もあります。そうした団体を時をみてご紹介していけたらと思っております。