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2016年8月29日月曜日

英雄?故マルコス大統領英雄墓地埋葬を巡って

8月29日はフィリピンピンは英雄の日で休日*でした。

英雄の日は、フィリピンの国家建設に命を賭してまで尽力した、有名・無名の男女個人をたたえる日で、地域によってはパレードなどの催しがあります。

フィリピンでは誰が一体英雄なのでしょうか。
ホセ・リザール(Jose Rizal)、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)、アポリナリオ・マビニ(Apolinario Mabini)、マルセロ・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)、スルタン・ディパトゥアン・クダラット(Sultan Dipatuan Kudarat)、フアン・ルナ(Juan Luna
) メルコラ・アキノ(Melchora Aquino)、ガブリエラ・シラン(Gabriela Silang) スペインの独立に尽力し、スペインの後に来たアメリカに抗した人物たちです。(この中で何人の英雄を知っていますか?)


ラモス政権時に国家英雄委員会が1995年に定めた基準により、上記の人たちが政府によって認定されました。それでも勿論、人によっては英雄の定義がことなります。

フィリピンでここ一、二カ月話題となったのは、故フィエルディナンド・マルコス大統領のマニラのタギグ市にある英雄墓地(Libingan ng mga Bayani)埋葬問題。ドゥテルテ大統領が故マルコス大統領の亡骸を故郷のイロコスから英雄墓地に移動すると発言し、論争を巻き起こしました。

特に8月はニノイアキノデー、そして上記の英雄の日もあり、フィリピン国民にとって英雄とは一体誰なのか、再考する日とそしてその英雄たちにならいアクションを起こす日となりました。

故マルコス大統領は英雄か?
フェルディナンド・エドラリン・マルコス(Ferdinand Edralin Marcos 1917年9月11日 - 1989年9月28日)は、第10代フィリピン大統領。20年間にわたって権力を握り、独裁体制をしいたが1986年の人民革命(エドゥサ革命)によって打倒されました。その後はアメリカ、ハワイに亡命し病死。20年の政権時代、行方不明者、警察・軍権力者による女性のレイプ、活動家の投獄と超法規的殺害は多数。そして不正蓄財と権力をほしいままにした人物です。

2016年大統領選の期間中に故大統領の息子で、副大統領に選出したボンボンマルコス上院銀が、独裁政権を正統化する発言をし、メディアでも話題になりました。シンガポールの初代首相が亡くなった際、「エドサ革命が起こらず父の政権が続いていれば、比はもう一つのシンガポールになれたであろう」と言い、また、一部のフィリピン人はその間、フィリピンは経済的にも強く、秩序もあったといいます。

秩序と言っても見せしめのための処刑、公権力を使った恫喝・恐怖政治を敷いていただけのこと。経済の発展よりも自分の懐を肥やしていたのは他の政治家と全く変わりはありません。例えば、現在は建設はとまっているバタアン原発については、マルコス元大統領や協力者が当時8千万ドルもの賄賂を受け取っていたことが裁判資料から明らかになっています。

国家の英雄や異人が他の国では、そうではないことはよくあることですが、これだけ自国の国民を苦しめ、そして搾取した人物が「英雄」の列席に加わるというの納得がいかないのは勿論のこと、国民の反発が出てしかるべきことだと思います。

国民の反応
埋葬問題に関してマルコス政権下の人権被害者を支援する民間団体セルダが、計画の差し止めを訴え、各地域では大規模な反対デモが組織されました。国民の意見は明白のように思われます。

先日も私が教えてたアテネオ大学ナガ校で500名ほどが参加する大規模なデモが組織されました。学生たちが横断幕を持って「Marcos is NO Hero」マルコスが絶対にフィリピン国のヒーローでないことを訴えていました。

(c) Naval 2016



実は、2016年の選挙運動時期、大学教員の間で危惧していたことは、若い世代が独裁政権について知らなさすぎるのではないかということでした。実際、若年層の故マルコス大統領の息子、ボンボンマルコス議員の人気が高かったためです。選挙期間中の公開ディベートの歯切れの良さが若年層の人気を高めたようです。

サポーターはこと息子、ボンボンマルコス上院議員に関しては、親の行ったことが子どもに影響し、そのつけを払わされるというのは不当であるといいます。確かにそうかもしれません。ただ、彼が家族の一員として受けた不正による恩恵は、分別ある大人、そして公人として顧みる必要があります。上記のように傲慢にも父親が行った独裁が平和と秩序をもたらし、国を繁栄させたとは口が裂けても言えないでしょう。

Marcos is NO hero!
故マルコス大統領は外国人の私の目から見ても英雄とは言えません。はじめに挙げたフィリピンの英雄たちは国家の重大事に関わり、命を賭してまでも自らを貫いたフィリピン男女たち。彼らと最終的に私腹を肥やし(スイスの銀行に口座がある)、妻イメルダを役職に着かせ、自らに牙をむくものは国家権力を用いて黙らせる、そんな故マルコス大統領を英雄たちと同列に扱うことは出来ないのはないでしょうか。

昨今のインタビューでドゥテルテ大統領が故マルコス大統領を英雄ではないと認めています。更に第二次大戦中に受賞したと言われるメダルも偽物であったことが証明されても、意地でも彼を英雄墓地に埋葬すると言い張る大統領はもはや英雄墓地の意義を変えようとしているのではないかと思う感もあります。もしくはお得意の「冗談」あるいは「ちょっと言ってみただけ」と大衆の怒りを交わすのでは・・・。ただ、今回はそんな大統領の笑えない冗談に付き合う余裕はないようです。


*この英雄の日は特定の日にちはなく、毎年8月の最終月曜日です。


合わせて読んでね>> ニノイ・アキノデー8月21日-暗殺から30年、事件を振り返る-
参考:President Bongbong http://opinion.inquirer.net/88032/president-bongbong

#Marcosisnotahero

2016年8月18日木曜日

靴が語る過去: ドナウ川遊歩道の靴

古く美しいヨーロッパの景観を保つ、中欧の都市ブダペスト。とりわけ、ドナウ川にかかる橋から、眺めるライトアップされたブダ城や国会議事堂は、ドナウの真珠と言われるにふさわしい眺めです。

budapest


そんな美しいドナウ川土手に“Shoes on the Bank of the Danube(ドナウ川遊歩道の靴)”と言われるホロコーストの記念碑があります。映画監督Can Togay(カン・トガイ)氏が着想、彫刻家のGyula Pauer(ジュラ・パウア)氏によって造られました。

Shoes on the Bank of the Danube


記念碑は40メートルの長さ、川から70センチほどの幅で、鉄で作られた60足もの靴がドナウ川に向かう形で脱ぎ捨てられています。持ち主不在のその靴は、観光客の足をひきとめ、かつてこの地で起こった悲劇を静かに語っています。

1945年1月8日の夜、反ユダヤ主義を掲げる民族政党矢十字党がスウェーデン大使館に亡命した154名をかき集めた。彼らを川岸に立たせ、射殺しました。これが、矢十字党によるユダヤ人大量虐殺のはじまりでした。

矢十字党党員は、59日間に約3,600人を殺害したと言われています。一回の“処刑”で平均30名を殺害し、その遺体は、ドナウ川に投げ入れられました。

処刑場所となったのは、ペスト側では、Szent István Park, Franz Josephの土手, ブダ側では、Batthyány Square, Szilágyi Dezső Squareなどです。セーチェーニ鎖橋での処刑が規模が一番大きかったようです。今となっては、日中観光客あふれるそれらの場所からは、そうした凄惨な事件があったことが想像ができません。

Budapest


殺害されたそれらの人々はユダヤ人でした。ユダヤ人たちはユダヤ人の象徴であるダビデの星が印された家に移され、後にゲットー(ユダヤ人たちが強制的に住まわされた居住地区)に移動させられました。これで、ユダヤ人と他のハンガリー人の別が出来るわけです。

隔離、そして処刑とユダヤ人にとって大変過酷な時代でしたが、勿論それを見ていたハンガリー人の心も穏やかではなく、中にはユダヤ人を匿った市民、また中には宗教者Sister Sára Salkaházi(後にカトリックで列福される)も居ましたが、彼らも共に殺害されました。

これらの史実は1989年まで公に語られることはありませんでした。また、差別主義者、反ユダヤ主義者による言説は続いており、今でも非常に繊細な問題といえるでしょう。

しかしながら、2010年にはドナウ河川の延長をした際、迫害されたユダヤ人たちを救おうと尽力した人物たちの名前*となりました。

こうした記念碑は世界各地、とりわけヨーロッパには多いように思います。人一人の命が尊ばれない時代があった、そして今もそうなのですが・・・、とても暗く悲しい気持ちになります。過去は決して変えられませんが、学んで、繰り返さない誓いを持つことがこうした記念碑を訪れる意義ではないかと思います。

*Count János Esterházy, Slachta Margit, Angelo Rotta, Sztehlo Gábor, Friedrich Born, Raul Wallenberg, Nina és Valdemar Langlet, Salkaházi Sára, Jane Haining and Carl Lutz .

参照:Peace Trail Budapest

Peace Trailを歩く: ヨーロッパで戦争の足跡と平和への試みを追う

2度の世界大戦を経験したヨーロッパ。ヨーロッパ各地を訪れるとそれら戦争にまつわるモニュメント、博物館、資料館などを目にします。第二次世界大戦が終わり71年が経ちますが、それらの記念碑の故、多くの戦争を経験していない世代の我々も時代の爪痕を学び、今の時代に生きる意味を考えます。

Discover Peace (c) ブダペストの地図

こうした考えを深め、学びを促進すべく、ハーグの平和博物館ネットワーク(現在私がお手伝いしている団体)など、ヨーロッパの平和系団体や各地の行政などが中心となり、ヨーロッパの7都市(パリ、ベルリン、ブダペスト、マンチェスター、ハーグ、ウィーン、トリノ)に戦争にまつわるモニュメント、人々がどう平和を壊し、またそれを取り戻すべく努力したのか・・・縁の場所巡りを推奨する、マップが作成されました。

マップはオンラインバージョンと、ハンドブックサイズのものがあります。写真と共にその地にまつわる事件、出来ごと、その顛末などがコンパクトに書かれております。

両ハンドブックは残念ながら日本語バージョンはありませんが、簡易な英語で書かれているために、上記地域にお出かけの際は、現地で是非入手して、持ち歩くことをおススメします。私の生活するハーグでは、平和宮で1ユーロで入手可能です。

各地域での配布先は、Discover Peaceのウェブサイトに掲載されています。

ただ、入手先に行けない場合は、地図のみのダウンロードは可能です。ただし、説明はないので予め回る場所の説明をPDFファイルなどで携帯に入れておくか、プリントアウトしておくと便利です。Peace Trailと言われる順路と場所のいくつかは、多くの観光客が訪れる場所ではないため、見つけづらい場合もありますので、事前によくご確認を。

実は今回、上記に挙げた7都市のうちの2つ(ブダペストとウィーン)を夏休みを利用して旅することになりました。ウェブサイトにある、地域を訪れてみることにしました。