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2013年9月7日土曜日

国際平和の日(International Day of Peace)を祝う

 国際平和の日(International Day of Peace)、通称ピースデーのこの日は平和、特に戦地なら一時的に停戦とするように推奨される日で、フィリピンでもこの日に現地のNGOによってイベントがおこなわれ、滞在期間とこの日が重なると必ず出席しています。

[国際平和の日の始り]
 1981年11月30日の77回目の総会で、コスタリカとイギリスの発案で国際平和の日が、国連の決議36/67として決議され、9月の第3火曜日(総会の通常会期が始まる日)を平和の理想を強化する日としました。しかしながら、1989-1996年までの間に大型の武力紛争は減少傾向を示すものの、既存の国家権力への挑戦を重点とする新型の紛争が見られるようになり、平和の日は無視され続けてきました。

[9月の第3火曜日から固定の9月21日へ]
イギリスのフィルムメーカーであるジェレミィ・ギリがロビーイングにより関係政府に働きかけをしながら、2001年9月7日の決議55/282で、9月21日に固定された日になり、紛争地域に一時停戦を呼びかけるようになりました。2001年9月11日、当時の国連事務総長であるコフィ・アナンが、メディアに向けての発表を行い、国連の平和の鐘を打ちイベントを行うという時に、ワールドトレードセンターへの旅客機衝突、アメリカ同時多発テロ(911)として知られる事件が起こり、イベントは中止、ニューヨーク国連ビルに集まったメディア、式典参加者は避難を余儀なくされました。
 この平和の日、正確には人々の平和を望む人々は、来る対テロ戦争などでその日が意味するところを試されることになります。何とも波乱な平和の日、第二章の幕開けでした。

Peace Wallの序幕式(2009年)ケソンメモリアルサークル
にて
[フィリピンでの国際平和の日を祝うイベント]
 滞在中のフィリピンで、平和の日のイベントに度々参加してきました。毎年行われているケソンメモリアルサークルでのイベントでは、主にケソン市のNGO、Gaston Z. Ortigas Peace Institute、ミリアム大学の平和教育センター、Peace makers circleなどが中心となりながら、コンサート、ゲームなど気軽に楽しめる企画をし、大小様々な団体が参加しNGOなどのブース展示もします。
 同日に和平プロセス担当大統領顧問室(Office of Presidential Advisor on the Peace Process:OPAPP)がフィリピンの商業都市であるマカティ市のショッピングモールで、音楽とこれまでの活動の発表をするイベントも開催されました。当日動員されたであろう多くの警察官たちがいたのが印象的でした。

[参加した感想]
 公園、あるいはショッピングモールでの開催で一般の人の目に触れる場所でありますが、それでもやっぱりまだ、マイナーな日であることは変わりません。現在生活するオランダの街の学生たちに国際平和の日にワークショップをしようとという話をしたら、それはいったいどういう日なのか?と聞かれました。国連の定めた記念日などよほどの機会がないか、ニュースとならない限りは知らなれないと思います。私が国際関係などに興味を持つ前などは、かろうじて「世界のこどもの日(11月20日)」、「女性の日(3月8日)」などは聞いたことがありましたが、それ以外はあまりなじみがありませんでした。
 世界で起こっている出来事に対して、わずかながらも考える余地を生みだすのが、啓蒙としての国際記念日の良さですが、実際はあまり知られていない日が多いということと、それがメディアとしてのニュースバリューをあまり持ちえないという難しさがあると思います。だから、国際機関のみならず国内のキャンペーンでも著名な人たちに関わってもらうことで認知度を上げるようにつとめます。啓蒙、イベントを打ってお金がかかり、数値的な結果がすぐに見えないけど、何もしなければ何も始まらないのですが、難しいところです。

[日本ではどうだろうか?]
 これまでの平和運動の経緯で、平和とその活動自体が参加する人達の(政治)思想によって平和が解釈され、特定の政治体制、国に偏った批判とその批判を行う団体と理解されていると感じます。また、「平和」だれもが反対出来ない言葉ながらも、どこか現実を無視したような愚かな理想主義的な響きすら感じさせてしまいます。
 フィリピンでは昨年2012年の10月フィリピン政府と、モロ・イスラム解放戦線(MILF)との間に歴史的な和平講和の枠組み合意がなされ、40年にも渡る紛争が一つの大きな区切りを迎えました。現在は、両者で今後の詳細を決める話し合いが続いていると言います。上記のような平和団体による活動による成果と言うよりは何よりも政治的意志が強かったと思いますが、フィリピン政府の組織OPAPPで交渉に携わってきた女性は上記に述べたNGO出身でした。草の根の視点を知りつつ、政府に批判的な姿勢を少なからず持っていると思いますが、それでも平和構築の重要な一役担いました。NGOなどの国に比べると小さな組織と、政府とのつながりのダイナミズムを感じました。フィリピンだから出来たのでしょうか? 
 
 最後に、平和な場所から、平和を訴えることは何とも愚かなことと思われるかもしれませんが、所謂先進国と言われる豊かな国が考え、そして果たせる政治的、かつ経済的な役割は大きいと思います。多国籍企業は、紛争地にもその支社を持ち影響を持っています。そうした国や企業が紛争に関わる中で大きな影響を与えてきたということは繰り返し言われてきたことです。「紛争ダイヤモンド」などは分かりやすい例ではないかと思います。

 今年の平和の日は、オランダ田舎街(なんて失礼な!)でワークショップを行います。それまでに現在の夫婦喧嘩の停戦、和平講和にのぞみたいと思います。

2013年9月4日水曜日

Youth Acty!! ‐若者にオルタナティブはあるのか?

私は学生ではありませんが、NPOのIVUSAさんが発行する大学生のためのフリーペーパー、Youth Acty!の制作に関わっております。
 学生に覇気がない、あるいは守りに入っているなど、いつの時代もですが、学生を含めて若者全般に関しての文句は一向になくなりませんが、「このままでいいのか?」と問題意識や危機感を持ち、何か行動したいと思っている大学生や若者は昔より確実に増えており、その彼らの背中を多少なりとも押すような情報を提供できたらと思い、フリーペーパーの制作を始めました。

 既存の経済至上主義や競争原理に対するオルタナティブな価値観やライフスタイルを、同じ若者・大学生の視点から提案・発信していくとともに、「何かしなくちゃ」と感じている大学生や若者に社会へのアクションのきっかけを提供していくという高い志と健全な好奇心のもと雑誌をつくり始めて早、5年です。

 5年の中で、8回ほどの発行といささか少ないようにも感じられますが、基本姿勢としては毎回大学卒業などで入れ替わる編集者の関心、そして世の中の方向を見ながらテーマを決めて、編集側も学びを深めていく形で発行していきます。

 これまでの企画で、学生らしさ全開の特集は、ダッ●ュ村企画であったと個人的には思います。
学生が東京を離れ、また携帯、パソコンなどの使用を禁止して、自給自足で生活し、その体験を記事にするという体当たりな企画。既存の雑誌にもこうした企画物はありますが、手作りの豆腐、五右衛門風呂、近所の人との物々交換など、数日でいろいろ体験したようで、私も参加したかったと思いました。
 これまで社会への訴求が大きかったテーマは、無縁社会。この言葉の生みの親である、板垣 淑子さん(NHK報道局社会番組部報道ディレクター)、若者を中心に労働相談のサービスを提供しているPOSSEの青木 耕太郎さん(一橋大学)と、ホームレスや生活困窮者、ワーキングプアの問題に取り組んでいる自立生活サポートセンターもやいスタッフの冨樫 匡孝さんなどへのインタビューはレイアウトをしながら、いろいろと考えました。
Youth Acty! のインタビュー記事はこちら→(http://www.youthacty.net/interview/569

 関わりで学んだ大切なことは、「思いのほかあった若者の力」でした。あれ、若者と活動している
から、若者に対してポジティブで、若者の力を信じているのでは?とよい意味で勝手に思われていますが、残念ながら違います。
 若者に対するネガティブな印象は、私の大学生活にはじまっています。親にサポートされてふにゃふにゃ生きている若者がある種妬ましく、まったく同年代ながら受け付けられない存在でした。自分で生きているわけではないのに、一人前ぶったり、若者の特権と言いつつ(当時の私から見ると)理解不可能なことをしたり・・・そのあたりの突き放し感はいまも変わりませんが、若者だからできることというマジックワードに潜む実態を見て少々見方が変わりました。
 彼らはカオスを内包している。きれいな言葉だと、可能性なのでしょうが、あえてカオスと呼ぶのは、彼ら自身も実態が分かっていないから。もっと年をとって経験を積む混沌が集約されていきます。カオスから夜、昼が生まれたように。色んな意見を取り入れて、自分なりに吟味して、価値観を形成していく時期故に、形作られていく力を感じます。

 若者の力は、更に海外だとより強く感じます。特に途上国と言われる国々は若者の人口比が非常に高く、彼らの政治への影響力は侮れません。日本ではそのあたりは、若者の投票率の低さからも見る通り、弱いと言わざる得ませんが、今後の政治教育と参加次第ではと思います。Youth-Acty!最新号は「僕たちのマニフェスト」と題して、7月の選挙に絡めて、労働・雇用政策、政治参画政策、エネルギー政策などを特集しました。

 近頃はどうかわかりませんが、日本の大学は入るに難しく、出るには易しい故、大学時代を自分を形作る期間としてどうデザインするか、「自分の人生を生きるのか」それとも「他の人の生きる人生を模倣をするのか」の分かれ目ではと思います。
 
最新号のPDFはこちらのウェブサイトからダウンロード可能です。http://unitedyouth.blog96.fc2.com/blog-entry-20.html






 

2013年9月2日月曜日

アンネの日記の舞台を訪れる - アンネフランクハウス‐

 アンネ・フランクは、「アンネの日記」の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれ、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家は故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命しました。
アンネフランクハウス(Anne Frank Huis)は、オランダのアムステルダムにあり、アンネ・フランクの一家を含めた8人が1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れるため隠れ家として住んでいた家を利用した博物館で、現在アンネ・フランク財団が管理運営を行っております。オランダ訪問の際は立ち寄るべき場所であると思います。

 博物館自体はそれほど大きなものではありませんが、二年間隠れ住んだ屋根裏、アンネの日記の原本、当時の反ユダヤ主義を回想させる展示物など歴史的な資料も見ることができます。また訪問者が人種差別について考える映像を交えた仕組み等があり、展示物を見て考えたことを反芻できる場所となります。

 この隠れ家で生活していたのは、アンネ・フランク、オットー・フランク(アンネの父)、エーディト・フランク(アンネの母)、マルゴット・フランク(アンネの姉)、ペーター・ファン・ペルス(アンネと恋愛関係になる少年)、ヘルマン・ファン・ペルス(ペーターの父)、アウグステ・ファン・ペルス(ペーターの母)フリッツ・プフェファー(歯科医)の8人。彼らの名前は日記では本名でつづられていません。8人のうちで生き残ったのがアンネの父、オットーフランクでした。アンネは、ドイツ軍からの解放を待たず、姉のマルゴットが亡くなって2,3日の後腸チフスのため強制収容所にて亡くなりました。

 8人が隠れ住んだ場所は、1階、2階部分はオフィスとして使用されいた場所で、3階4階部分を隠れ家として改装して使用していました。部屋は8人が生活するには少々狭く、事務所が開いている日中は音に相当気を使わなければならないものの、それでも個々人のプライバシーは確保され、家具なども事前に運ばれて準備をされていたために自由はないながらも、生活は営めたようです。隠れ家では、そうした難しい事情ながらもユダヤ教の祝い事や誕生日なども祝われたといいます。アンネフランクハウスの内部は残念ながらカメラ撮影禁止ですが、youtube(Visit The Secret Annex Online in English, Dutch or German!で検索)で内部の様子を映像として公開されていますので、視聴おススメです。
 
アンネの日記は60か国語以上に翻訳され、多くの人に読まれ、またこれまでに映画化(アニメ化)がなされ、世界一有名な日記帳ですが、これまでに日記については様々な論争がありました。日記のオリジナル性を問うもの、ねつ造疑惑等です。日記は14、5歳の少女が書いたものとしては早熟であったということ、日記にはオリジナル版と清書の2つが存在し、どちらも完全な形では残っていなかったため、のちにオットー・フランクにより、両原稿を相互補完する形で編集されたため、本人の筆ではない等などの批判がなされました。ちなみにオリジナルは辛辣な批判、(特に母親に対する)も含むため、削除された箇所もあります。そのような理由から後に鑑定が行われ、最終的にはアンネ本人が書いたものと結論付けられたといいます。
 また、そもそもアンネフランクなる人物は存在しなかったという批判がなされ、裁判になりました。後に一家を逮捕した秘密警察を探しだし、アンネフランクが実在の人物であるという証言を得ました。いくつかの法廷論争が後に起こったのですが、判決からアンネは存在していたし、アンネの日記は価値ある書籍であるという結論は変わらないと思います。そして、2009年にはユネスコの世界の記憶にも登録されています。

 アンネの日記とともにおススメが、ビィクトール・フランクルによって書かれた「夜と霧」。強制収容所での過酷な生活の記述とともに、いかなる人生の局面においても人間の内面とそこに宿る何かを忘れないことが生きる力となるという感想を持ちました。人間の心理、内面への洞察が哲学的であり、収容所を体験した個人の記録としても非常に意義深いのですが、深い哲学性故にこれまでに多く出版されて来た収容所の体験談以上に長く読まれているのだとおもいます。

[アンネフランクハウス]
電話 020 556 7105
ウェブサイト http://www.annefrank.org
Youtube http://www.youtube.com/annefrank
Twitter http://twitter.com/annefrankhouse
所在地 Prinsengracht 267 1016GV Amsterdam

2013年9月1日日曜日

ヴェステルボルク通過収容所を訪れて

身近な人が亡くなることを悼むのは自然の心情。彼らとの関係から、自分の一部が亡くなるように私は感じます。しかし、まったく会ったことがない人が亡くなることにはそれほど繊細にならないのではと思います。敏感に彼らの死を感じるとしたら、それは恐らく彼らの人生の一部を何らかの形で知って、一時でも彼らの状況を想像する、感情移入する時、あるいは自分の経験と照らし合わせて彼らの状況を慮るときなのではないでしょうか。ニュースなどで聞く他人、そして多数の死は数以上に何も意味を持たないものなのでしょうか?全てに敏感になっていたら身がもちませんが、彼らをそういう状態に置く、暴力を憎む気持ちを持ちたい、そして歴史を学ぶためこうした場所に極力訪れるようにしています。

 ヴェステルボルク通過収容所は、第二次世界大戦中、オランダのユダヤ人やジプシー(ロマ民族)、レジスタンスなどの人たちがオランダの外、とりわけドイツ、ポーランドにある絶滅収容所や強制収容所へと移送されていく通過点になった場所です。1944年8月4日、アンネフランクの一家はゲシュタボによって隠れ家を発見され、その後8月8日に移送され、アウシュビッツ強制収容所に移動されるまでの約一カ月をここで過ごしました。残念ながら交通の便があまり良くはない場所にある博物館ですが、オランダにお越しの際は来られたらよい場所かと思います。

 ヴェステルボルク通過収容所の博物館の展示は、大きくは2つに分かれています。一つは通過収容所と収容者たちの生活、そしてその当時の情勢などが時系列に説明されています。もうひとつは、手紙や証言など個人の記述、証言によってこの歴史的出来事を学べるスペース、とくに16歳以下の子どもたちがオランダのフトのキャンプからソビボル強制収容所に移送されその直後に虐殺された史実について焦点を当てております。博物館そのものはそれほど大きくはありませんが、展示物から歴史を学ぶことが出来、当時の様子、そして収容された個々人の人生、彼らの感情、そして家族とのつながり等を強く感じました。

 1941年、ドイツ軍は全てのユダヤ人をオランダの国外に強制退去させることを決定しました。ユダヤ人がシナゴーグを中心としたコミュニティを形成していることを知る、ドイツ軍はそれらリーダーはドイツ軍の意向に従うべく協力を強制されました。国内全てのユダヤ人は登録を強制され、登録をもとにヴェステルボルクに一時的に移送されます。勿論、強制退去の後に強制収容所で虐殺されることを聞き、登録をせず潜伏そして中には抵抗運動に加わる人たちも居ました。

 強制移住に際しては、手荷物はたった一つのスーツケースあるいはバックパックのみの携帯を許されました。収容所の登録に際して、全ての貴重品とお金は没収されます。収容されたユダヤ人たちの望みは、この通過収容所に解放される日がおとずれるまで、一日でも長く滞在すること。キャンプ内で仕事を見つけることで、長く滞在出来ることから、収容された人々は仕事を探すことにつとめたといいます。
 親衛隊(SS)は、通過収容所での生活を一般的な街のそれと変わらぬように努めたと言います。人々は結婚し、子どもも生まれ、病人は手厚い看護を受け、子どもたちは学校に通い、キャンプには劇場、図書館そして、シナゴークもありました。キャンプには期待と絶望の異なる感情に支配されていたといいます。

 通過収容所がユダヤ人たちを収容そして、オランダ国外に彼らを移送開始したのが1942年7月15日、1943年初頭から毎週の移送スケジュールが組まれるようになりました。毎週火曜日、1,000人ほどの収容者が移送させられ、1945年4月にカナダ軍に解放されるまで合計93回、10万人以上が通過収容所から強制収容所に送られました。
 35,000人がソビボルに送られ19人だけが生き延びました。62,000人がアウシュビッツに送られ1,000弱が戦中を生き延びたと言います。それらの強制収容施設に送られてすぐにガス室に送られた人々、そしてその他の人たちは、極めて過酷な強制労働に従事させられました。ベルゲン・ベルゼン強制収容所(Bergen-Belsen)、 テレージエンシュタット(Theresienstadt)に送られた8,000人のうち4,000人が生き延びたと記録されています。

 102000回:母、父、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、姪、甥、友人たちが殺された。
 (博物館内の展示物、説明文から) 
印象に残った記述は、未熟児として生まれた赤ちゃんの話。通過収容所に来る6日前に生まれた赤ちゃんは3カ月の未熟児。赤ちゃんの体重はたったの2.5ポンド(約1.1㎏)。通過収容所に到着と同時に、保育器に入れられ、その後体重は5.5ポンド(2.5㎏)まで増えましたが、その後すぐにアウシュビッツに送られたといいます。

 展示されている手紙や記述から、訪れた人は戦争について考え、戦争に対して嫌悪を抱かざる得ないのではないかと思いました。
 けど、実際の国際政治の文脈に合わせると、「仕方がない」と様々な事情から思い、理由をつけます。戦争の理由はいくつもあります。国の独立を維持するため、国防のため、迫害を受けている人たちがいるので保護する責任として、復讐、同盟国が戦争に関わっているから・・・
 国際的道義として、懐疑主義的、国家中心的道義主義、そしてコスモポリタンという異なる見方がありますが自分のコスモポリタンな側面が刺激されたように思います。自分自身、国際政治は、個々人からなる社会の問題とまでは突き詰めて思わず、また絶対的平和主義者ではないものの戦争や圧倒的な暴力をなくす努力、あるいは極力小さな規模で、そして初期で留められる方法はあるし、それを追求すべきであると強く思います。
 暴力を憎む心を持つことの重要性を考えつつ、実際の国内外の政治でそれらの思いがどういう形で反映されるか、現在のシリアの情勢も鑑みて考える日々です。