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2016年11月20日日曜日

世界テロリズム指標2016の発表(Global Terrorism Index 2016) ハーグ

11月17日、世界テロリズム指標2016の発表がハーグのシンクタンク、ハーグ国際正義研究所(The Hague Institute for Global Justice)にて行われました。

経済平和研究所の研究所長(Research Director, Institute for Economics and Peace) Daniel Hyslop氏による指標2016年度の要旨の発表、 ハーグテロ対策研究所(The International Centre for Counter-Terrorism – The Hague (ICCT))、ディレクター代理Alastair Reed博士、グローバル・コミュニティ アンド レジリアンス ファンドのAmy Cunningham 氏がさらに論旨を深め、のち質疑応答の時間が30分ほど持たれました。

Global Terrorism Index 2016 Launching in the Hague
Global Terrorism Index 2016 の発表


世界のテロリズムの傾向

2016年は29,376名もの人が亡くなりましたが、テロリズムによる死が前年比で10パーセント減少しています。ISILの本拠地で30パーセント、ボコ・ハラムの本拠地ナイジェリアでは30パーセントの減少が見られました。レポートのでは76カ国に指標の向上が見られました。

一方で、23カ国でテロ関連の死傷者が過去最多。OECD加盟国内での死傷者は650パーセント上昇!! OECD加盟国34カ国中21カ国がテロの攻撃を受け、それらの攻撃による死傷者の52パーセントがISIL(イスラミック・ステート)が関係しています。

テロは、発生地域、加害主体の集中が見られます。加害主体は主にISIL、ISILに触発されたグループ、タリバン、アルカイダ、それら4つのグループが全体の74パーセントを占めています。そして、ISILがボコ・ハラムを抜きました。

ISILとボコ・ハラムは本拠地で勢力が弱まりましたが、その代りにその活動範囲は広がりました。ボコ・ハラムは近隣の国に、ISILもその近隣地域と、少し離れたチュニジア、フランスなどでテロ行為を行っています。

依然としてテロ指標が高い10カ国は、イラク、アフガニスタン、ナイジェリア、パキスタン、シリア、イエメン、ソマリア、インド、エジプト、リビア。OECDでのテロが脅威を与えましたが、多くのテロが見られたフランスは指標の中では29位(フィリピンは12位、日本は67位)、パレスチナに次いでいます。指標の数値や順位を見て一喜一憂はできません。

指標作成に関わった専門家たちは、OECD加盟国とその他の国のテロ発生と関係する要件は異なり、OECD加盟国では社会・経済的要因―(若者の)雇用の機会、軍事化、小型武器の入手が容易であること、認知される犯罪のレベル、政治不信と指摘しています。

一方、OECD以外の国では、汚職のレベル、難民が人口に占める割合、紛争の期間、近隣国との関係、正常の不安定、紛争の激化、紛争による死者などの特徴が挙げられます。

また、両者には共通点があり、暴力的デモ発生の可能性、とりわけ他者の権利の容認や不平等が深くテロの発生と相関関係を示しています。


世界テロリズム指標とは?

Global Peace Index 2016
Global Terrorism Index 2016 世界テロリズム指標2016

世界テロリズム指標(Global Terrorism Index)テロリズムによるインパクトを測るための指標で世界163カ国、世界人口の99.7パーセントをカバーしています。指標は、世界的権威ある世界テロリズムデータベースを元にしています。

指標のスケールは0から10。0はテロによる影響がないことを意味し、数が大きくなるほどにその影響の大きさを示しています。

上記のワースト5の国の指標は以下です。
1.イラク 9.96
2.アフガニスタン 9.4444
3.ナイジェリア 9.314
4.パキスタン 8.613
5.シリア 8.587

参考:日本 2.447

指標は、年毎のテロ活動の数、テロによる死者数、テロによる負傷者、所有物損害のレベルから指標化します。

活動による死傷者のスコアを最大の3として、所有物損害のレベルを2、テロの件数を1、テロによる負傷者数を0.5とします。

スコアの一例
指標 /指標のウエイト/1年の記録/素点
テロリストの件数/1/21/21
死傷者数/3/36/108
負傷者数/0.5/53/26.5
所有物のダメージ/2/20/40

素点合計/195.5    
素点を1~10のスケールにします。

自明ではないテロリズムの定義

テロリズムという言葉はメディアを通じて、日常的に耳にしますが、実は定義はそれほど明確ではありません。何となく、一般市民に加える暴力のようなあいまいとしたイメージがあり、日常的にそれら定義を明確にする必要は考えないでしょう。

しかし、定義作りが必要な理由は、①データ共有の際、②政策立案のため、③法整備をするためと理由は明白です。このようなテロリズムの指標を作る際も、研究・分析のデータ共有の必要性から定義は必要です。

オランダのカールシュミット(Carl Schmitt)は、テロリズムを定義するために指標となる12の要素を提案しています。そのうちのいくつか要素を挙げると、暴力の実践に関するドクトリンがあること、テロ行為が戦略となる状況がある、恐怖、パニック、心配を与える、直接のテロの被害者が窮状や不満を訴えたい相手ではない。同氏の提案はいろんな観点が含まれており、同指標を検証する上で非常に参考になります。

このGTIには国家が支援するテロ行為は含まれていません。それゆえに完全に満足できる指標とは言えませんが、定量化することで感覚で「テロの恐怖がそこまで迫っている」「コワイ」と思うことから、実際はテロの多くはこのブログを書く私や読んでくださっている読者の生活圏から離れたところで起こっていると自覚する一助になると思います。

また、テロによって多くの損害を被っている国がどこで、それが国の援助活動・対テロと言われる支援とどうつながっているのか、批判的に見る助けになると思います。


2016年11月17日木曜日

ベルタ・フォン・ズットナーをしっていますか?

いきなりですが、ベルタ・フォン・ズットナーを知っていますか?

ここでクイズです。
ベルタ・フォン・ズットナーとは
①ノーベル平和賞を初めて受賞した女性
②オーストリアの2ユーロの肖像となった人
③小説家

正解は・・・

全部です。

もし、あなたが平和活動に関心があり、またそういう活動にかかわっている場合、彼女の存在を知っていなかったらもぐりです!

とまでは言いませんが、知っておくべき人物の一人ベルタ・フォン・ズットナーは1世紀前のオーストリア出身の女性平和活動家です。著書「武器を捨てよ!」は有名です。そして、ノーベル平和賞の女性初の受賞者、オーストリアの2ユーロ貨幣はベルタ・フォン・ズットナーさんの肖像です。





昨日、ハーグの中央図書館でベルタ・フォン・ズットナーについてのランチタイムレクチャーがあり、同僚とともにお邪魔してきました。レクチャーはオランダ語でしたので、私はちょっとしかわかりませんでしたが、30分のレクチャーは同僚曰く大変満足できるものだったといいます。


ベルタさんは、1843年6月9日生まれ、ノーベル平和賞を受賞した約10年後の1914年にその激動の人生を終えました。彼女の生きた時代は、軍事競争が激化し、まさに大戦前夜。その中で、戦争のない世界を目指して精力的に活動した作家、女性平和活動家です。

著作「武器を捨てよ!」では、主人公マルタの目を通じて、戦争の悲惨さを伝え、多くの共感を得ました。マルタと執筆、出版時のベルタさんの年齢は同じぐらいだったため多くの人が自伝と思ったようです。

ノーベル賞で有名なノーベルの秘書であった時期もありました。また、執筆活動以外にもオーストリアで平和団体を創設、またドイツの国際平和ビューローに加入し終身会員であり同副会長も務めました。 

当時では、彼女の生き方や主張は過激にも映ったかもしてませんが、先駆的な女性平和活動家でした。



白状しますが、私自身オランダに戻ってくるまで、名前と著作は知っていたけど、具体的な貢献などについては「もう昔のこと」として深く気にも留めていませんでした。

ベルタ・フォン・ズットナー(ベルタさんと以下お呼びします)との再会は、現在ボランティアをしているInternational Network of Museums for Peaceの事務局長(実は不思議なことに、事務局でそのポジションを示す名称がないので、仮にそうお呼びします)がベルタさんに強い関心を示しており、事務局でも何度もその名を聞いたことです。

それから、ベルタさんはオーストリアの出身で、オーストリアにあるPeace Trail の15の場所の一つがベルタさん縁の地です。短い通りは、彼女の名を冠しています。ウィーンは、日本人が観光でよく出かける場所なので、ぜひそれらの場所を巡ってほしいと思います。

Peace Trail in Vienna
Peace Trail (c) discver peace http://wien.discoverpeace.eu/peace-trail-vienna/


*Peace Trailのガイドブックもウェブサイトも英語と現地語のみに訳されているので、日本語版は残念ながらありません。ただ、多くの人がリクエスト(日本語版がほしい!)と言ったら、もしかしたら日本語訳も考えるかもしれません。(実現の確率はわかりませんが・・・、言ってみて損はないでしょう?)



2016年11月16日水曜日

オランダの平和賞―カーネギー・ウォータラー平和賞(Carnegie Wateler Vredesprijs) 2016授賞式

カーネギー・ウォータラー平和賞2016授賞式が2016年11月16日に平和宮 (Peace Palace)で行われ、今年はオランダの外交官で、国連レバノン特別調整官 -シクリッド・カーク (Sigrid Kaag)氏が長年の中東における功績により受賞ました。

Mrs. Sigrid Kaag at Peace Palace
授賞式後、プレスのインタビューに答えるシクリッド・カーク氏


オランダ外交官のカーク氏は、国連移住機関(IMO)で国連でのキャリアが始まりました。その後、国際連合パレスチナ難民救済事業機関(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East、UNRWA)、国連児童基金(United Nations Children's Fund)、国連開発計画(United Nations Development Programme)でアフリカ、中東地域に長く勤務しました。近年は、シリアにおける化学兵器の全廃に特別調整官として尽力しました。



インターネットニュース・アルジャジーラのインタビューに答える映像が残されています。




カーネギー・ウォータラー平和賞とは?
カーネギー・ウォータラー平和賞は2人の歴史的に重要な2人のフィランソロピストの名前を冠したオランダの平和賞と呼ばれ、平和に貢献した団体や人物に贈られます。

カーネギーはアメリカの鉄鋼王でしたが、平和宮の建設に貢献した人物であることは知られています。そして、平和宮はカーネギー財団の元、さまざまなプロジェクトや催しが行われています。

一方ウォータラーは、日本ではあまり知られていませんがオランダ人の銀行家でフィランソロピストです。100年前の11月16日、ちょうど式典が行われた日にヨハン・ウォータラーは自らの財を平和賞の創設にささげると誓約しました。

Johan G.D. Wateler
ヨハン・ウォータラー (平和博物館 e-book, Peace Philanthropist - Then and Now)


現存する平和賞では、ノーベル賞の次に古いと言われています。ウォータラーはその財産を言葉や行いによって平和に貢献した個人や団体にささげる賞とすることをオランダ政府に提案しました。しかし、何らかの理由でオランダ政府は拒絶。その代わりに、カーネギー財団にその任を託すことにしました。現在の名前、カーネギー・ウォータラー平和賞となったのは、2004年です。

平和に特化するフィランソロピストについてはこちら、平和博物館発行の「Peace Philanthoropy - Then and Nowをご一読を

式典の様子
5時の開会、歴史家で平和博物館のマーティン・バン・ハーテンがフィランソロピストの本を出版したため、そのスピーチと本の紹介、そして平和賞受賞者の授賞式、スピーチ、歌と音楽ありの式典でした。政治家、外交官、国際司法裁判所の裁判官、研究者、NGOなど、およそ100名が平和宮のICJ裁判が開かれるグレートホールに介しての式典でした。
Carnegie Wateler Peace Prize



国連やNGOで働くことは、とくに称賛されたいと思い始めることではありませんが、その仕事を通じて難しい状況にいる人たちがいることが社会に認識されます。

カーク氏の受賞、心からお祝いいたします。



2016年9月16日金曜日

暴力に抗するには―シカゴの実践から

ドキュメンタリーThe Interrupters (2011) のアメーナ・マシュー(Ameena Matthews)さんがハーグに来て講演するとの情報を得て、ハーグ・インスティチュート・グローバル・ジャスティスの講演会場に行ってきました。




The Interruptersとは?

おそらく日本では上映されておりませんので、ひとまず作品の紹介を。2011年公開の非営利映画製作会社Kartemquin Filmsによる作品。Interrupterとは「妨害者」の意味。妨害者といっても、主な登場人物が暴力的な行為で何かを妨害するというものではなく、人々を暴力のサイクルに陥らないように妨害する人、暴力からコミュニティを守る人たちに焦点を当てたドキュメンタリー。



舞台となるシカゴはアメリカのニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ大都市。人口は大阪市と同じぐらいの270万人。今年1月から現在まで500件以上の殺人事件がありました(同市昨年比でも増加しているとのことです)。これがどれぐらい多いのか、日本と比較してみると、2015年1年間で、日本は933件の殺人事件があったので人口比で考えて、殺人事件、そしてその他の犯罪が日本はもちろん、ヨーロッパなどの都市に比べて多いことがうかがえます。ただ、注目すべきは犯罪がどこで、誰によっておこされているいるのか。そして銃器の使用。

上記の”妨害者”は、疾病の予防・治癒のような手法で、暴力の予防に取り組みます。暴力の根源を突き止め、それらに効果的な治療を施します。社会にこれを適応すれば、暴力的でかつ周囲に影響を与えている人物を特定し、彼らと接し、彼らのもつ社会的規範を変えていきます。

規範は社会学用語ですが、簡単にいえば行動のよりどころとされている社会からの期待とも言えると思います。犯罪に手を染める若者には彼らの所属するグループにおける”規範”があります。学校文化、社会がよしとするものへの反発、暴力をカッコイイとする規範を仲間うちの中で築いていきます。それらを若者たちに叱咤激励、寄り添いながら、そして信頼を得て、変えていきます。

アメーナさんの話
アメーナさんとはだれか?ドキュメンタリーで取り上げられた3人のうちの一人、唯一の女性。アフリカ系アメリカ人、そしてイスラム教徒。お父さんはギャングの親分で、現在は収監中。
ドキュメンタリーの話というよりは、彼女がどのような環境で育ち、誰から影響を受けたのか、などまるで近所の人との世話話を楽しむように、聴衆に話し聞かせてくれました。


アメーナ・マシューさん(左)、司会のアビ・ウィリアムさん(右)
家族の話では、両親の話はあまり出ず、おばあちゃんがどのように彼女を育てたのかを話してくれました。おばあちゃんの知恵と影響のためか、自分の家があまり貧しいと思ったことはなく育ったといいます。おばあちゃんは「○○だから、△△できない」とは言わなかったといいます。ある日、友達の家に行ったときにカラーのテレビがあり、それらを見てなぜうちにはないのか、そこで貧しさについて他の家と比較して気がついたそうです。

いろいろな人生のエピソードにふれましたが、その一つとして、学生時代の話がありました。学校の先生が、彼女が触れると黒くなる、あるいは彼女が触れたものを触ると(間接的接触で)黒くなる皆にいったそうです!まったくありえないような先生がいるもので驚きましたが、彼女は本当なのかと、わざと他の人のボールペンを使用し、体操着の名前を塗りつぶして着用したそうです。それで本当にそれらを使用した人が「黒く」なるのかと、ためしたようです。

エピソードが次から次へと出てきて、さまざまな登場人物が出てきて、話を追うのが大変でしたが(笑)彼女の話には彼女のおばあちゃんからの、あるいは彼女の経験からくる名言もちりばめられており、聞きもらすまいと私を含め、聴衆は必死だったはず。

会場の様子
1時間という時間内で、彼女のライフストーリーを聞き、そして質疑となる予定でしたが、質疑のための時間があまり残されず少々残念でしたが、会場は彼女のパワーに圧倒されていた様子。

会場は女性の参加者が多く、講演後彼女と個人的なコンタクトを持ちたい、質問したいという人たちが列を作りました。私もそのうちの一人でしたが、結局人が多すぎて質問ができませんした。その代わりどさくさにまぎれてちゃっかり一緒に写真を1枚とりました。



最後に、彼女の話とドキュメンタリーの肝は一体なんだったのか?暴力に暴力で抗しても望む結果「暴力からコミュニティを守る」が得られないということ。暴力は病気の病状に似て、そこに至る積み重なった原因があるのだから、それに根気強く対応しないといけません。

アメーナさんのおばあちゃんの、「be persistent!」、根気強く、粘り強くなれというアドバイスは、妨害者としての活動の中で、粘り強く若者に接し、コミュニティを暴力から守っていくという彼女の活動の中に活きていると思いました。

そして、「生」と「死」という選択肢があるのであれば、明らかに「生」を選択すべきだと力強い言葉が印象に残りました。「死」は解決ではなく、暴力の敗北的帰結なのだと私は理解しました。

2016年9月5日月曜日

フィリピン、テロとの戦い-ダバオナイトマーケット爆破事件

フィリピンでは、ドゥテルテ政権の下、2つの戦争―ドラッグとの戦い&テロとの戦いが進行中です。先日のダバオ市の爆破事件は、特に比政府のテロとの戦いを激化させました。これらの闘いに勝利はあるのでしょうか。

Davao crocodile park
ダバオ市のワニ園にて撮影 2009年


テロとの戦い
アブサヤフによる未成年者の斬首事件
アブサヤフは、フィリピンそしてアメリカでもテロに指定される団体で、フィリピン南部のホロ島やバシラン島などのスールー諸島及びミンダナオ島のサンボアンガ半島などを拠点で活動していおり、近年は組織的誘拐(誘拐ビジネス)によりその活動資金を得ている。先月末、誘拐された未成年者がアブサヤフの手により斬首されました。それを機にミンダナオのスルー州で大規模な掃討作戦を行っています。

ダバオのナイトマーケットの爆破
フィリピン、大統領が長年市政を務め、現在は大統領の娘が市長を務めるダバオ市で9月2日金曜日の夜ナイトマーケットで爆発事故が起こり14名が死亡、67名が負傷するという事件が起こりました。

(C) APF ダバオ事件後の様子



無法状態宣言(State of Lawlessness)
事件後、外国人誘拐事件を繰り返す、アブサヤフが犯行声明をだしました。これに対して、ドゥテルテ大統領はフィリピン全土に無法状態宣言(State of Lawlessness) を発令しました。2003年に全体大統領グロリア・マガパカル・アロヨがダバオ市限定に発令しました。これは、以前マルコス政権時代に発令した厳戒令は異なります。

**無法状態宣言(State of Lawlessness)って何?
1987年憲法で、大統領は無法な暴力を防止あるいは抑圧するために軍を招集することが許されています。
18項、7条で、フィリピン共和国大統領は、必要があればフィリピン国軍の指揮官となるとされます。大統領は軍を招集し、無法な暴力、侵略、反乱を防止し抑圧するであろうと記されています。

大統領の非常事態や国家の危機的状況に対する措置は3つの段階があります。まずは今回の措置、その上の段階は権力は、国民としての特権である人身保護礼状を一時時にさし止めし、裁判を経ずに捉え収監することが許されるようになります。最終段階が厳戒令です。

無法状態宣言(State of Lawlessness)とは具体的にどういうことなのか。
チェックポイントを増やし自動車やバイクの検問を実施、軍はその基地を離れて外でパトロールをすることになり、一般国民の目に多く触れることになります。
ミンダナオは例外的に軍人を高速道路沿いでよく目にしますが、私が生活していたビコール地方では勿論、他の地域では見られない光景です。また、夜間外出禁止も場所によっては指定されると思われます。

大統領ならやりかねないと思いつつ、私はこの措置にかなり驚きました。ダバオやミンダナオだけであるならまだしもフィリピン全国、無法状態宣言(State of Lawlessness) は行き過ぎた措置なのではないでしょうか?まず、行き過ぎた警戒で、返ってテロリストたちへの過剰反応であると見られてしまい、宣言の発令が投資に影響すると考えられるためです。

「処刑OK?ドゥテルテ大統領の過激な麻薬対策」

今後、厳戒令にまで引き上げるとは思いませんが、テロとドラッグ問題は重複すると警察庁長官が発言し出し、より暴力が公に許されてしまうことが懸念されます。アブサヤフが犯行声明をだしているものの、政権の就任以来の過激な麻薬対策+超法規的殺害に対する反応とも見られているためです。テロリストと麻薬王が重複する?あるいは協力体制にある?と。

しかし、そうだとしたら政権の用いた暴力に対する「暴力」での応酬とも見られます。一部国民および在比外国人はこれで治安がよくなると大統領を支持しますが、フィリピンは一部暴力がはびこる地域があっても法治国家であるということ、そして過激な政策には報復として過激な反応(カウンター)があるということを忘れてはいけません。

また、憲法により明記されているこの大統領が有する権利、行使が適切であるのか、国民は常に目を光らせておかねばなりません。



2016年8月29日月曜日

英雄?故マルコス大統領英雄墓地埋葬を巡って

8月29日はフィリピンピンは英雄の日で休日*でした。

英雄の日は、フィリピンの国家建設に命を賭してまで尽力した、有名・無名の男女個人をたたえる日で、地域によってはパレードなどの催しがあります。

フィリピンでは誰が一体英雄なのでしょうか。
ホセ・リザール(Jose Rizal)、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)、アポリナリオ・マビニ(Apolinario Mabini)、マルセロ・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)、スルタン・ディパトゥアン・クダラット(Sultan Dipatuan Kudarat)、フアン・ルナ(Juan Luna
) メルコラ・アキノ(Melchora Aquino)、ガブリエラ・シラン(Gabriela Silang) スペインの独立に尽力し、スペインの後に来たアメリカに抗した人物たちです。(この中で何人の英雄を知っていますか?)


ラモス政権時に国家英雄委員会が1995年に定めた基準により、上記の人たちが政府によって認定されました。それでも勿論、人によっては英雄の定義がことなります。

フィリピンでここ一、二カ月話題となったのは、故フィエルディナンド・マルコス大統領のマニラのタギグ市にある英雄墓地(Libingan ng mga Bayani)埋葬問題。ドゥテルテ大統領が故マルコス大統領の亡骸を故郷のイロコスから英雄墓地に移動すると発言し、論争を巻き起こしました。

特に8月はニノイアキノデー、そして上記の英雄の日もあり、フィリピン国民にとって英雄とは一体誰なのか、再考する日とそしてその英雄たちにならいアクションを起こす日となりました。

故マルコス大統領は英雄か?
フェルディナンド・エドラリン・マルコス(Ferdinand Edralin Marcos 1917年9月11日 - 1989年9月28日)は、第10代フィリピン大統領。20年間にわたって権力を握り、独裁体制をしいたが1986年の人民革命(エドゥサ革命)によって打倒されました。その後はアメリカ、ハワイに亡命し病死。20年の政権時代、行方不明者、警察・軍権力者による女性のレイプ、活動家の投獄と超法規的殺害は多数。そして不正蓄財と権力をほしいままにした人物です。

2016年大統領選の期間中に故大統領の息子で、副大統領に選出したボンボンマルコス上院銀が、独裁政権を正統化する発言をし、メディアでも話題になりました。シンガポールの初代首相が亡くなった際、「エドサ革命が起こらず父の政権が続いていれば、比はもう一つのシンガポールになれたであろう」と言い、また、一部のフィリピン人はその間、フィリピンは経済的にも強く、秩序もあったといいます。

秩序と言っても見せしめのための処刑、公権力を使った恫喝・恐怖政治を敷いていただけのこと。経済の発展よりも自分の懐を肥やしていたのは他の政治家と全く変わりはありません。例えば、現在は建設はとまっているバタアン原発については、マルコス元大統領や協力者が当時8千万ドルもの賄賂を受け取っていたことが裁判資料から明らかになっています。

国家の英雄や異人が他の国では、そうではないことはよくあることですが、これだけ自国の国民を苦しめ、そして搾取した人物が「英雄」の列席に加わるというの納得がいかないのは勿論のこと、国民の反発が出てしかるべきことだと思います。

国民の反応
埋葬問題に関してマルコス政権下の人権被害者を支援する民間団体セルダが、計画の差し止めを訴え、各地域では大規模な反対デモが組織されました。国民の意見は明白のように思われます。

先日も私が教えてたアテネオ大学ナガ校で500名ほどが参加する大規模なデモが組織されました。学生たちが横断幕を持って「Marcos is NO Hero」マルコスが絶対にフィリピン国のヒーローでないことを訴えていました。

(c) Naval 2016



実は、2016年の選挙運動時期、大学教員の間で危惧していたことは、若い世代が独裁政権について知らなさすぎるのではないかということでした。実際、若年層の故マルコス大統領の息子、ボンボンマルコス議員の人気が高かったためです。選挙期間中の公開ディベートの歯切れの良さが若年層の人気を高めたようです。

サポーターはこと息子、ボンボンマルコス上院議員に関しては、親の行ったことが子どもに影響し、そのつけを払わされるというのは不当であるといいます。確かにそうかもしれません。ただ、彼が家族の一員として受けた不正による恩恵は、分別ある大人、そして公人として顧みる必要があります。上記のように傲慢にも父親が行った独裁が平和と秩序をもたらし、国を繁栄させたとは口が裂けても言えないでしょう。

Marcos is NO hero!
故マルコス大統領は外国人の私の目から見ても英雄とは言えません。はじめに挙げたフィリピンの英雄たちは国家の重大事に関わり、命を賭してまでも自らを貫いたフィリピン男女たち。彼らと最終的に私腹を肥やし(スイスの銀行に口座がある)、妻イメルダを役職に着かせ、自らに牙をむくものは国家権力を用いて黙らせる、そんな故マルコス大統領を英雄たちと同列に扱うことは出来ないのはないでしょうか。

昨今のインタビューでドゥテルテ大統領が故マルコス大統領を英雄ではないと認めています。更に第二次大戦中に受賞したと言われるメダルも偽物であったことが証明されても、意地でも彼を英雄墓地に埋葬すると言い張る大統領はもはや英雄墓地の意義を変えようとしているのではないかと思う感もあります。もしくはお得意の「冗談」あるいは「ちょっと言ってみただけ」と大衆の怒りを交わすのでは・・・。ただ、今回はそんな大統領の笑えない冗談に付き合う余裕はないようです。


*この英雄の日は特定の日にちはなく、毎年8月の最終月曜日です。


合わせて読んでね>> ニノイ・アキノデー8月21日-暗殺から30年、事件を振り返る-
参考:President Bongbong http://opinion.inquirer.net/88032/president-bongbong

#Marcosisnotahero

2016年8月18日木曜日

靴が語る過去: ドナウ川遊歩道の靴

古く美しいヨーロッパの景観を保つ、中欧の都市ブダペスト。とりわけ、ドナウ川にかかる橋から、眺めるライトアップされたブダ城や国会議事堂は、ドナウの真珠と言われるにふさわしい眺めです。

budapest


そんな美しいドナウ川土手に“Shoes on the Bank of the Danube(ドナウ川遊歩道の靴)”と言われるホロコーストの記念碑があります。映画監督Can Togay(カン・トガイ)氏が着想、彫刻家のGyula Pauer(ジュラ・パウア)氏によって造られました。

Shoes on the Bank of the Danube


記念碑は40メートルの長さ、川から70センチほどの幅で、鉄で作られた60足もの靴がドナウ川に向かう形で脱ぎ捨てられています。持ち主不在のその靴は、観光客の足をひきとめ、かつてこの地で起こった悲劇を静かに語っています。

1945年1月8日の夜、反ユダヤ主義を掲げる民族政党矢十字党がスウェーデン大使館に亡命した154名をかき集めた。彼らを川岸に立たせ、射殺しました。これが、矢十字党によるユダヤ人大量虐殺のはじまりでした。

矢十字党党員は、59日間に約3,600人を殺害したと言われています。一回の“処刑”で平均30名を殺害し、その遺体は、ドナウ川に投げ入れられました。

処刑場所となったのは、ペスト側では、Szent István Park, Franz Josephの土手, ブダ側では、Batthyány Square, Szilágyi Dezső Squareなどです。セーチェーニ鎖橋での処刑が規模が一番大きかったようです。今となっては、日中観光客あふれるそれらの場所からは、そうした凄惨な事件があったことが想像ができません。

Budapest


殺害されたそれらの人々はユダヤ人でした。ユダヤ人たちはユダヤ人の象徴であるダビデの星が印された家に移され、後にゲットー(ユダヤ人たちが強制的に住まわされた居住地区)に移動させられました。これで、ユダヤ人と他のハンガリー人の別が出来るわけです。

隔離、そして処刑とユダヤ人にとって大変過酷な時代でしたが、勿論それを見ていたハンガリー人の心も穏やかではなく、中にはユダヤ人を匿った市民、また中には宗教者Sister Sára Salkaházi(後にカトリックで列福される)も居ましたが、彼らも共に殺害されました。

これらの史実は1989年まで公に語られることはありませんでした。また、差別主義者、反ユダヤ主義者による言説は続いており、今でも非常に繊細な問題といえるでしょう。

しかしながら、2010年にはドナウ河川の延長をした際、迫害されたユダヤ人たちを救おうと尽力した人物たちの名前*となりました。

こうした記念碑は世界各地、とりわけヨーロッパには多いように思います。人一人の命が尊ばれない時代があった、そして今もそうなのですが・・・、とても暗く悲しい気持ちになります。過去は決して変えられませんが、学んで、繰り返さない誓いを持つことがこうした記念碑を訪れる意義ではないかと思います。

*Count János Esterházy, Slachta Margit, Angelo Rotta, Sztehlo Gábor, Friedrich Born, Raul Wallenberg, Nina és Valdemar Langlet, Salkaházi Sára, Jane Haining and Carl Lutz .

参照:Peace Trail Budapest

Peace Trailを歩く: ヨーロッパで戦争の足跡と平和への試みを追う

2度の世界大戦を経験したヨーロッパ。ヨーロッパ各地を訪れるとそれら戦争にまつわるモニュメント、博物館、資料館などを目にします。第二次世界大戦が終わり71年が経ちますが、それらの記念碑の故、多くの戦争を経験していない世代の我々も時代の爪痕を学び、今の時代に生きる意味を考えます。

Discover Peace (c) ブダペストの地図

こうした考えを深め、学びを促進すべく、ハーグの平和博物館ネットワーク(現在私がお手伝いしている団体)など、ヨーロッパの平和系団体や各地の行政などが中心となり、ヨーロッパの7都市(パリ、ベルリン、ブダペスト、マンチェスター、ハーグ、ウィーン、トリノ)に戦争にまつわるモニュメント、人々がどう平和を壊し、またそれを取り戻すべく努力したのか・・・縁の場所巡りを推奨する、マップが作成されました。

マップはオンラインバージョンと、ハンドブックサイズのものがあります。写真と共にその地にまつわる事件、出来ごと、その顛末などがコンパクトに書かれております。

両ハンドブックは残念ながら日本語バージョンはありませんが、簡易な英語で書かれているために、上記地域にお出かけの際は、現地で是非入手して、持ち歩くことをおススメします。私の生活するハーグでは、平和宮で1ユーロで入手可能です。

各地域での配布先は、Discover Peaceのウェブサイトに掲載されています。

ただ、入手先に行けない場合は、地図のみのダウンロードは可能です。ただし、説明はないので予め回る場所の説明をPDFファイルなどで携帯に入れておくか、プリントアウトしておくと便利です。Peace Trailと言われる順路と場所のいくつかは、多くの観光客が訪れる場所ではないため、見つけづらい場合もありますので、事前によくご確認を。

実は今回、上記に挙げた7都市のうちの2つ(ブダペストとウィーン)を夏休みを利用して旅することになりました。ウェブサイトにある、地域を訪れてみることにしました。

2016年7月9日土曜日

歴史教科書問題に解決は見られるのか(2):歴史家の役割

歴史教科書問題に解決は見られるのか(1)では、歴史的不正義とは何か、その要素の記述を見ました。被害者、加害者などの関係者、関係者がまだ存命中、あるいは既に亡くなったという時間制、生きている被害者と加害者の別、そして存命中あるいは既に亡くなっている関係者のアクションなど。それらを元に歴史的不正義について、歴史家は何ができるのかについてAntoon教授は引き続いて講義した。

各国のケースについて、パネリストが発表


歴史的不正義に対し、歴史家が出来ることは「責任ある歴史記述」。責任ある歴史記述とは、正確さと誠実さ。正確さと誠実さがある歴史記述は、民主主義を強化し、歴史的不正義に対する闘争を助け、正義を増進するアンプリファイアー(増幅器)の役割をする。

歴史的不正義を学ぶことは象徴的な償いをすることである。弁証法的に述べるのであれば、民主的な社会は、社会的な不正義が少なく、社会的不正義の被害者に対する関心が非民主的社会よりも高い。人権は、民主主義を促進する。人権は、不正義に対する闘いを強化する。

もし我々が歴史を学ばないのであれば、歴史における不正義が起こる可能性が増すことを意味する。過去の歴史的不正義を追究せず、真相を究明せず、罰せず、学ばず、そして教えないことは、決して民主主義を強化しえないのである。

では、実際歴史的不正義をどうやって教え、学ぶのか、それはもっともな根拠がある歴史解釈を教えること、そして過去の(誤っている/正統な根拠に基づかない)歴史解釈を拒絶すること。

そのように責任ある歴史記述を追及していくものの、歴史的不正義を学び・教えることは歴史の機密性、虚偽、沈黙の3つの理由から難しい。

機密性には、真実を詳らかにすること、情報を得ることを努力することで対処し、虚偽には論駁と論争、沈黙には認識・承認することを持って答える。しかし、それでも歴史家が歴史的不正義の問題に対する時に直面する問題がある。

まず誰が歴史的不正義の被害者であるのか。被害者を特定するのは被害者の沈黙の故に難しい。沈黙の故に、被害者が何を考え/感じたのか、我々が知ることが難しい。そして、それら(直接・間接的)被害者をどのように追悼すべきか、そしてどの程度、どのような方法でもって行うことが望ましいのか。

第二に、倫理・道徳的審判を歴史家が下すべきであるのか。表現の自由から判断を下すことも、同時に下さぬことも許されているが、どちらをとっても非常に困難である。判断を下す場合は、勿論判断するに足る十分な証拠がなければならないこと。それでも価値判断からは自由となりえないため、①各時代(epoc)の持つ価値、②自らの持つ価値、③普遍的な価値(国連の人権宣言などにあらわされる)の三つを常に意識し、その違いをよく認識しなければならない。

判断を下さぬことも許されるが、しかし歴史的な検証を続けていき、目を覆いたくなるような人権の侵害や被害者の惨状を目の当たりにした時にはむしろ倫理的・道徳的な裁きを下さないことがむしろ難しいのでないだろうか。

第三に、一般大衆が歴史的検証をどのように受け止めるのか。史実の正さが充分な論証を持ってなされても一般大衆がそれを受け入れない可能性もある。また、過去の悲痛な歴史を詳らかにすることで、過去の傷に触れることになる。一般大衆は、それらの過去に耳を傾けることを躊躇するであろう。



↑会場の様子がビデオに(私も密かに映っていますw)

まとめとして、歴史家は裁判官ではない。それ故に、歴史的な事件に対して審判を下せない。しかしながら、歴史家によって責任ある歴史記述が果たす役割は個人、社会に対して大きい。ゆがめられた理由を正し、機密性・虚偽・沈黙を破る。直接的・間接的な被害者に象徴的な補償をもたらしまた、民主主義を強化し、過去の世代が犯した歴史的不正義を現世代に認識させうる働きがある。歴史教育に携わるものの役割は大きい。



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2016年7月6日水曜日

歴史教科書問題に解決は見られるのか(1)

日本・韓国・中国の歴史教科書問題に解決は見られるのか。

条件付きで、そして近隣諸国との関係を良いものとするために、積極的に取り組むべき問題としてYESと答えたい。しかし、歴史教科書、そして歴史認識問題の近年の動向を見てもなかなかポジティブに解決すると簡単には言いきれない現実がある。

日・中・韓の間で、歴史の認識と解釈、特に第二次世界大戦中の日本の植民地支配、歴史的事件を巡り大きな議論となり、外交問題になって久しい。特に近年は、橋下議員の慰安婦発言(国際的なニュースになった)、それら歴史認識に反発するように、アメリカや韓国各地(在韓日本国大使館前)の慰安婦像設置され、その数も増えている。また、中国が世界記憶遺産に南京大虐殺を登録したことなどが記憶に新しい。

ここハーグで7月6日、Teaching for Peace - History in Perspective conferenceが行われたので、出席した。主催はNGO Forum for Peace in East Asia。会議の参加者の多くは韓国で、歴史を教える高校・大学の教員、教科書の著者が多い様子、その他私のようにオランダ在住の人たちであった。
感情的にヒートアップしてしまいやすい問題だけに、どのように会議が進行されるのか、怖くもあり興味もあった。午前中をいっぱいに使った会議では複数のスピーカーやパネリストが会議の方向性、狙い、そして事例などを発表したが、中でも、オランダのグロ二ゲン大学Antoon教授(歴史家)のレクチャーは、短い時間での発表にも関わらずよく整理されており、非常に説得力のあるものだったので、ここにレクチャーの内容を紹介したい。

歴史的不正義とは何か、歴史家は何が出来るのか。教授の発表はこのタイトルに忠実で、一つ目のポイント歴史的不正義とは何かと定義、そこに含まれる要素についてポイントを押さえた説明の後、二つ目のポイント歴史家あるいは歴史教育に携わる人が何が出来るかについて議論した。

不正義とは、全ての戦争犯罪を含めた行為、それらの過去からの蓄積。それら不正義には、必ず犠牲者がいる。犠牲者には犯罪から直接的に影響を受ける直接的犠牲者と直接的犠牲者の家族(親族は含めない。ここでは、家族とはどこまでが含まれるのかも議論の1つとなる。)である間接的犠牲者がいる。また同時に加害者もいる。加害者とは犯罪行為の実行者であるが、加害者には直接・間接の別はない、なぜなら誰かに危害を加えるという行為においては「間接的」であるということはないから。

また歴史的不正義というときに、時間的に遠くはない昔、最近に起こったもので、被害者・加害者ともにまだ生きているRecent injustice と被害・加害者ともに時がたち過ぎているためになくなってしまっている、Remote injustice がある。
生きている加害者には、法的な裁きを行えるが、既に亡くなってしまっている場合は勿論、その罪状を追求し、法的な裁きを下せない。同時に生きている被害者には、補償がなされなければならない。

国連は補償の5つの形を提唱している。1. Restitution (補償:被害者が被害に遭う前の状態に戻すこと。例:自由を得ること、人権の回復すること、人権、市民権、家族、生活していた土地に戻ること、財が返還されるなど。), 2. Compensation (賠償:精神的・肉体的苦痛、機会の喪失、道徳的なダメージによってもたらされる経済損失への賠償)、3. Rehabilitation (被害者への医療・精神的なサポートを含む)、4. Non-repetition grantee (二度と繰り返さないという約束)、5.Satisfaction (象徴的な補償:公式謝罪、遺体の捜索と改葬、法的制裁など) 

ただ、これらの5つの内4つは生存している被害者には有効で5番目に挙げた象徴的な補償は既に亡くなった被害者に有効である。また、remote injustice (被害・加害者ともに既に他界している)場合もこの象徴的な補償をもって対処されるべきである。

歴史的な不正義とその要素は上記の通りであるが、これらを踏まえて歴史家あるいは歴史教育(NGOワーカーも含めて)携わるものは何ができるのか。
参照資料
THE UNITED NATIONS BASIC PRINCIPLES AND GUIDELINES ON THE RIGHT TO A REMEDY AND REPARATION FOR VICTIMS OF GROSS VIOLATIONS OF INTERNATIONAL HUMAN RIGHTS LAW AND SERIOUS VIOLATIONS OF INTERNATIONAL HUMANITARIAN LAW
http://legal.un.org/avl/pdf/ha/ga_60-147/ga_60-147_e.pdf

2016年6月30日木曜日

イギリスのEU離脱の衝撃-オランダの場合

1週間前の6月23日木曜日にイギリスのEU離脱を問う国民投票が行われました。その結果は、52パーセントが離脱、48パーセントが残留と離脱派が上回り、離脱が決定しました。
ここヨーロッパでは、勿論連日連夜ニュースで報じられ(現在もです)、人々の話題に挙がっています。テレビを付けるとそればかりなので、旦那は情報が過剰すぎると言っていますが、それに同意しつつも無理もない話だと思います。
EUの中心のベルギー、ブリュッセル
あらためてEUとは
EUは、欧州連合(European Union)の略、現在28カ国の連合体、1993年11月1日のマーストリヒト*条約(欧州連合条約)発効により創設されました。ヨーロッパ内で再び戦争が起こることを抑止することを願い創設されました。

マーストリヒト条約でEU設立の目的が記されています。
(a) 域内国境のない地域の創設、及び経済通貨統合の設立を通じて経済的・社会的発展を促進すること、
(b) 共通外交・安全保障政策の実施を通じて国際舞台での主体性を確保すること、
(c) 欧州市民権の導入を通じ、加盟国国民の権利・利益を守ること
(d) 司法・内務協力を発展させること、
(e) 共同体の蓄積された成果の維持と、これに基づく政策や協力形態を見直すこと  
(Treaty on European Union , 外務省)

EUは、経済統合に加え、政治統合の推進を目指す、包括的で大きな機構です。
*マーストリヒトは、オランダ南部の都市。

経済の統合について言えば、EU間は関税がないので、EU圏内の経済の活性化が測られます。
人の移動については、それとは別途、協定が結ばれています。シェンゲン協定といい、ルクセンブルグのシェンゲン村で締結され、これに締結している国の間では入国審査なしで行き来が自由となります。しかし、EUに加盟しているのにシェンゲン条約に加盟していないイギリス、EUに加盟していないもののシェンゲン条約を締結しているノルウェーなどの国もあります。

EUの歴史をちょっと
1952年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足し、のち1958年にEEC(欧州経済共同体)を発足、経済の統合を目指しヨーロッパのより一層強い統合をはかっていきました。その後EC(欧州共同体)として、前2者の共同体とEURATOM(欧州原子力共同体)の主要機関を統合しました。そのECが現在のEUの前身です。このように徐々に基盤と信頼をつくり、はじめは6か国だったのは現在は28カ国となりました。

イギリスEU離脱派の主張
離脱派の主張は、「国としての主権を回復する」こと。離脱派の前ロンドン市長ジョンソン氏をはじめとする離脱派は、、増える国民の税負担、失業率の増加、治安の悪化、イギリス古来の文化の喪失を懸念していました。
EU離脱で、EU加盟国が払う負担金や、他の加盟国へのサポートして払われるお金(ギリシャ危機)などからも自由になります。

昨年だけで難民125万人がヨーロッパに来たとされてます。難民が到達した国々では、彼らを路上で生活させることは出来ないため、シェルターに連れて行き、その後難民申請を行い、受理されたら、その国で生活となります。(おおざっぱな説明となってしまいましたが、実際は細かいプロセスがあります。)

文化、言葉が異なる国からの移民となるため、社会的統合には時間がかかり、その間は受け入れ国がサポートします。そのサポートが税金からとなって居ることが受け入れ国側の不満となっていたりします。特に、ヨーロッパ諸国の税金は高いので、税金にみあった社会サービスをローカルが受けられなくなる?のではという声も出てきて不思議ではありません。

また、都市部の近年見られるようになった慢性的な混雑は、人口増によるものですが、EU圏内からの移民によってのものと言われています。

残留派の主張
ヨーロッパの金融市場の中核と言う地位を失う、そしてEUの混乱が起こることを懸念。
イギリスが離脱すると、EU内のパワーバランスがドイツに大きく傾くことになります。それを快く思わぬ国が離脱、EUが解体していくのではないかという懸念があります。

ただ、実際彼らの(いまとなっては)失敗は、離脱したら経済的損失が大きいというものの、それが当に脅しのようになり、移民の問題について提案が出来きませんでした。

イギリスEU離脱のオランダ人の反応
EU離脱で起こるとされていることにイギリスポンドとユーロの信用低下、価格の下落、景気の後退はよく言われることで、オランダ人の友人は経済におけるインパクトを懸念します。何せ、イギリスはオランダの重要な貿易国ですので。

なので、大方のオランダ人は英国の決断を残念な気持ちで受け止めています。先日もちょっとした会合に出席した際に、開会の辞でEUの離脱について触れていました。勿論、コメントは「とても残念だ!」とのこと。

ただ、オランダ人の友人は、もう起こってしまったことなのだから、次にどう進むかだとのこと。しかしオランダでも、EU離脱を叫ぶ人たちもいます。離脱を訴える政党は徐々に議席を伸ばしつつあり、英国の離脱が他の国に与える影響―離脱の選択肢を国民に考えさせる心配が僅かながらあるもの事実です。

オランダの難民
オランダ人は「節約家(別の言い方をするとケチ)」な人種と言われますが、こと社会問題、誰か助けが必要な人が居たら身銭をきれる、ポリシーある節約家(ケチ)であります。
中東地域からの難民がオランダにも相当数おり、彼らにニーズを提供することに関しては「義務」と思っている節があるようです(勿論、国民全体というわけではありませんが)。
シリアからの難民が難民申請をした場合は、かなり高い確率で難民申請が受理されるようです。ただ、他の地域例えばイラン出身の難民は申請しても受理されるとは限りません。これは別に差別しているというよりは、国としてシリアの現状をみて、その国からの難民に比重を置いているという意味です。

オランダ人の友人が今シェルターでボランティア活動をしているとのことですが、彼女のイラン出身の友人はゲイで、イランの自宅に留まっていたら厳格な父親に殺される(父親も帰ってきたら「殺す」と言っているそうです。どうやら脅しではないようです。)と、逃げてきたとのことですが、彼のケースは命が脅かされているケースであるものの、申請しても受理される可能性は低いようです。

オランダに生活するイギリス人
オランダに生活するイギリス人の法的地位は今後結ばれるであろうイギリスとオランダの二国間あるいはイギリスとEU間で結ばれる条約によるところが大きいのは勿論のこと。既にオランダで生活している英国民をいきなり追い出すことはできません。新しい条約取り決めによっての登録が義務付けられることでしょう。ただ、もうEU市民ではないので、EUに関する投票権、オランダで行われる選挙への投票権はなくなり、オランダ国内で働いている人の家族の呼び寄せに影響がでることでしょう。

長期で滞在するイギリス人は今後のことを懸念し、オランダ国籍にアプライすることを検討している人もいるようです。
(DutchNews.nlより)

保守党の政治的なガス抜きを狙った安易な国民投票の約束が招いた結果で、アナリストが指摘するように、キャメロン首相の根拠なしの楽観という感はぬぐえません。彼の退任の挨拶はかっこよかったんですけどね。

今は蜂の巣をつついたような騒ぎですが、暫くしたらイギリス抜きのEUとして機能していくに問題はないと思いたいとことですが、これによってEUが解体するのではと危惧するのは上記のように言い過ぎではないかもしれません。大きな視点で見ると、反グローバリズムへの動きの1つなのではないかと・・・思うこともなきにしもあらずです。