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2013年8月28日水曜日

デモ-非暴力行動で社会に変化を起こす-

 8月25日、ナショナルヒーローズディ、休日の今日、フィリピンでは連日メディアをにぎわせているナポレス事件から、優先開発補助金=PDAFをめぐる汚職を防ぐために、リザール公園でデモが行われました。友人たちもリザール公園に参じた様子がFacebookの写真などからも見られます。10万人が集ったと言われるデモはエドサ革命の10分の1の人数ながらも現政権に大きなインパクトを与えたと思います。

 ナポレス事件こと、優先開発補助金=ポークバレルの不正受給事件が発覚して、一カ月以上経ちますが実際の汚職の規模、関係者の数はまだ今の時点では断定出来ていないようです。監査のできた410億ペソ、内61億ペソ強が活動内容に問題のある82団体(NGOなど)の772事業に、上院議員12人、下院議員180人のPDAFが使われたことが判明しています。

 議員自身が団体運営に関与、複数の団体の代表に同一人物が就任、入札などの公平な手続きを経ず議員の息のかかった業者を選定、支出に対して文書を残さず決定、団体の法律で定められた公的な登録がなく、所在地が不明、本来の目的を逸脱した資金の流用。どれ一つをとっても公的資金の拠出先とはなりえぬような団体であり、監査の甘さが糾弾されざる得ません。

ポーク・バレルとは
 通称ポーク・バレル:pork barrel(豚肉貯蔵用の樽)は、米国を起源とする政府事業助成金を意味し、フィリピンでは、議員の裁量によって事業を特定できる予算を指しています。優先開発補助金:Priority Development Assistance Fund(PDAF)が正式な名称です。ポーク・バレルは、南北戦争期に奴隷に塩漬け豚肉を与えたことを語源とされています。

ポークバレルの歴史
 フィリピンの議会制度は、アメリカ植民地時代の1907年に始まり、コモンウェルス(独立準備政府)発足の過程の中で形成され、その際にポーク・バレル制度も導入されました。大戦後の1946年独立以降、大統領制・二院制議会制とともにポーク・バレル制度も継承されました。
 1972 年のマルコス大統領の戒厳令布告を契機に、ポーク・バレル制度は大統領の特権となり政治的関心、利権の拡大のために使われたといいます。1986 年のエドサ革命によりマルコス政権が崩壊し、1987 年憲法の公布により大統領制・二院制議会制が復活し、ポーク・バレルはそのまま制度として残されました。
 1989 年にミンダナオ開発資金とヴィサヤ開発資金が、それぞれ政府支出金によって設けられ、北部のルソン地方を含めた全国的な開発資金として、 1990 年に全国開発資金( Countrywide
Development Fund:CDF )が設けられ、すべての下院議員・上院議員の選挙区における開発計画が推進されることになりました。2000 年、CDFは優先開発支援資金(Priority Development Assistance Fund:PDAF)に改称されました。
 
 この資金は、比較的国会の審議には通りづらい政治的関心が少なく、そして小規模のプロジェクトに対して使われていると聞きます。特に地方で、中央政府の手が行き届かない場所など、地元の政治家故に通じる事情で、プロジェクトを進めていくことが可能で、まったく完全なる悪ではないと言います。

しかし、この一カ月、フィリピンをにぎわせている今回のジャネット・ナポレス事件では100億ペソもの膨大な補助金が存在しないプロジェクトに、そして少数の利益に流れ、やはりこの補助金が汚職や不正の源泉になることを示しました。また、ポークバレルやその他公的資金をもって建設された建造物などに政治家やその親類の名前が入っていることがあります。法律で政治家が売名行為として、公的建造物の名前に自らの名前をつけることは禁じられていますが、その政治家の名前そのものではないにせよ、祖父など親族の名前などがでかでかとペイントされ、または建物が立てられたそばのターポリンバナーにはその政治家の写真と名前がしっかりを入っています。
 
 8月25日のデモはアキノ政権発足してから最大規模と言われます。アキノ大統領は、制度の見直しと改善を図ることを述べていますが、完全な撤廃を要求する声が高くデモの参加者10万人、そして参加は出来なかったものの今回の事件を発端に見えてくる汚職の全貌に怒りをあらわにした市民たちが、存続を許さないことだと思います。

 事業家で現在逃亡中のナポレスが捕まったら、事件の全容がもっと明らかになるのでしょうか。事実を知ることの大切さ言うまでもないのですが、市民がいったん収拾した事件から教訓を得ても、許し、忘れてしまうのではと恐れます。実際、マルコスの夫人イメルダを筆頭に、本来政治家としての資質が疑わしい政治家がいまだに選挙に出て、票を得ています。それは、政治が世襲化されているということも大きな構造的な理由ですが、どこか汚職を許してしまう体質があるのではないかと思います。アキノ政権でこうした事件が明らかになったことは、政権任期中にとっては一大事ですが、体質改善の千歳一隅のチャンスだと思います。汚職に徹底的に対する政治を掲げてきたアキノ大統領、不正に微塵の隙間も与えぬ政治を任期いっぱいやりぬいてほしいと、部外者ながらも感じます。




2013年8月21日水曜日

「はだしのゲン」がNGOワーカーとなった遠因

 「はだしのゲン」、個人的にも大変思い出深い図書が、松江市教育委員会が、子どもが自由に閲覧できない措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていたことがニュースとなりました。

「はだしのゲン」は週刊少年ジャンプに掲載された漫画で、作者の中沢啓治さんによる、自身の原爆の被爆体験を元にしてストーリーが描かれています。単行本、文庫本などを含めた累計発行部数は1000万部を超え、世界で20ヶ国語ほどに翻訳もされているといいます。2007年5月30日からウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、本作の英訳版を加盟国に配布され(47 News 2007/04/29 07:08)世界的にも知られている漫画です。

 漫画の中に、人の首を切る場面や女性が乱暴される場面など、一部に過激な描写があることが教育委員会の公式見解だそうですが、“一般市民”が教育委員会に図書の撤去の要請をしたことが、今回の発端だったようです。(47 News 2013/08/21 20:51 松江、高知の教委にゲン撤去要請 男性がブログで明かす)
 激しい描写や天皇批判などから、反日、売国漫画だとの批判もあるのと同時に、原爆の悲惨さを訴える漫画、平和を考える漫画としての評価も高く、自分の思想的立ち位置によって大きく評価が分かれるようです。

 私がこの漫画を読み、アニメを見たのは小学生。過激な描写が頭から離れず、漫画とアニメを観た後は数日にわたり睡眠中原爆、戦争の夢にうなされました。影響をもろに受けたわけですが、劇画調の絵が怖かったものの、子ども心に原子爆弾なるものは絶対、二度と使われるべきではないということ、人の命がこうも容易く失われていくことに対する嫌悪感を覚えました。反日的漫画という指摘がある部分は、恐らく私が幼すぎて理解できていなかったと思われますが、「反戦」意識のほうが強く残り、すっかりそのころにはコスモポリタン的な考え方が移植されたように思われます。このような感じ方をしたことはある種の遠因で、高校時代は、図書館にあったモザンビークの内戦について書かれた書籍に影響を受けました。その時は、片田舎の学生でNGOなる横文字のよくわからない職業が存在するとは思っていませんでしたが、それら図書の影響で自然と今のような職業を選択するように押し流されていったように思います。

 今回の一件、私はなぜ今こうしたことがニュースになるのか?こうした議論は作品の古さから今に始まったことではなかったはず。むしろ、こうした閉架図書とするように苦情を送った人、それが受け入れられた地域もあったこと、この文脈に注目すべきだと思いました。

 私と同じ世代でも同作品を読んで、左翼的だ評価している友人たちもいましたが、それは読んだから言えることなのではないかと思います。批判した友人たちも読んだのは子ども時代だったようです。そして、のちのちそうした評価をするのは、それはそれでよいのではと思います。

 しかし、結果論としてかえってこの漫画を知らなかった世代にも知られるようになったのではないかと思います。

 

 


2013年8月6日火曜日

若手ムスリムによるボランティア・NGO活動

 フィリピンでは、残念ながらまだムスリムに対する差別や偏見などがあるようです。勿論、ムスリムに限らず、少数民族に対する差別もいまだ存在しますが、夫の研究の関係で主にムスリムの人たちの首都圏の暮らしに触れる機会がありました。学生寮では、ムスリムと名前などからわかると入居を断られたり、タクシーの乗車を拒否されたり(マニラだと、ムスリムでなくてもドライバーの都合で乗車拒否ということがしばしありますが!)、就職でも有利ではないという話をしばし聞きます。

 差別、偏見故に彼らの存在は、特にカトリックが多数を占めるマニラでは影が薄いのかと思いきや、そうした事情がありつつも非常に活発に活動するムスリムの若者たちがいます。彼らによって立ちあげられたグループのいくつかに出会いましたがそのひとつ、GroupAid。基本的にはNGOをサポートするNGOです。サポートの内容は、開発プロジェクトのためのアドミニストレーション機能強化のためのコンサルタント、アドボカシ‐(提言活動)のためのネットワーク推進、教育的活動の企画・立案・実行など、サポート事業にとどまらず、自らもプロジェクトを実施している団体です。

 出会いはFacebookで、私の旦那がムスリムの人たちを研究のためにインタビューしていく中で、出会いました。コアのメンバーたちは、ムスリムの若手で様々な分野で活躍する人たちをつなげる、Young Moro Professionals Networkという団体に所属しており、積極的な提言活動、とくにムスリムミンダナオ地域での和平プロセスに対して強い関心を示し、時あらば政治家や関係者を招いてのディスカッションなども行い、参加させてもらったことがあります。


 GroupAidの彼らのオフィスを訪問し、オープンなメンバーたちにすっかり居心地がよくなってしまった私たち夫婦は毎週金曜日に彼らのオフィス(あるメンバーの自宅)で行われるムスリムの人たちのためのコーラン勉強会などに参加させてもらいました。コーランの勉強会は、GroupAidのオフィスで行われていましたが、GroupAidの加盟団体の一つであるNurFactoryが主催していました。イスラム教徒としての成長を促す企画・勉強会などを企画・実施し、さらにボランティア活動も行っています。彼らの勉強会に参加し、ディスカッションを通じ、また飲み食いを共にしながら、本で読んで知る以上に実際の彼らの宗教的慣習の一部に触れ、雰囲気を多少なりとも感じることが出来ました。毎週金曜日の勉強会は、団体の活動そのものというわけではありませんが、学びが多いものでした。

子どもたちとゲームを楽しむ若手ムスリムボランティアたち
コアメンバーの女性は、自分の自宅を開放し、ムスリム女子を呼び泊りながら夏合宿のようなものを催したり、断食明けの催しであるイド・アル=フィトルにも招待してもらったことがあり、子牛一頭の丸焼きや、ごちそう、皆で祝うそのムードにコミュニティの温かさを感じました。ちなみに昨年は、イド・アル=フィトルはフィリピンのアクション俳優、ロビン=パディリアの自宅で行われ、ミーハーな私は、一緒に写真をとってもらい、はしゃいでしまいました(汗)

 現在はコアのメンバーの1人はARMM(ムスリム自治区)の知事の推薦を受け、ミンダナオ島、コタバト市にあるARMMのオフィスで働いています。また、他のメンバーも政府系の機関で働いており、それらのネットワークを生かしながら、積極的に提言活動を行っているようで、今後の彼らの団体と何らかの形で関わり、活動できる日をここオランダで楽しみにしています。