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2017年6月21日水曜日

世界は平和になりつつあるのか?-世界平和指標2017発表

世界は平和に近づきつつあるのか?

毎日どこかで戦争があり、毎日どこかで人が戦争・犯罪などで亡くなり、テロのニュースも頻繁に聞くようになって久しい今日。世界は平和から程遠いのでは?と思われます。しかし、"昨年に比べて"ちょっぴり、平和に近づいた!と世界平和指標はいいます。

昨年に比べて、平和指標は全体平均で0.28%上昇し、世界は少しだけ平和になりました。(163カ国をカバーする指標中)93カ国で平和指標の上昇が見られ、63カ国で低下、世界の最も平和である国と、最も平和から遠い国とのギャップは広がりました。
(Global Peace Index 2017 Highlightより)

今日2017年6月13日、オランダハーグのシンクタンクThe Hague instituite for Global Justice で、世界平和指標2017年版の発表があり、参加してきました。


Global Peace Index (世界平和指標)
http://visionofhumanity.org/app/uploads/2017/06/GPI-2017-Highlights-1.pdf

世界平和指標(The Global Peace Index、以下GPI)とは

GPIとは、文字通り各国の平和度を計る指標です。オーストラリアに本拠地を置く世界的シンクタンクInstituite for Economics and Peace によって作られました。23の指標をもとにして専門家の定めた視点を1から5のスコアで評価し、それを総合した値で平和度を測り、毎年世界の傾向を発表し、また国別のランキングを出しています。

現在進行中の国際・国内の紛争を紛争での死者数、長さ、近隣諸国との関係等6つの指標から評価し、セキュリティを犯罪率、国内外の難民、政治的安定、テロリズムのインパクト、殺人率、暴力犯罪、受刑者数、人口10万人に対する警察の数など10の指標から評価、そして軍事化を軍事費、10万人単位での軍人の数、通常兵器の輸出入、国連平和維持部隊への財政的貢献、核兵器、重火器・核兵器の所有、小型武器・軽武器へのアクセスのしやすさなど7の指標によって評価します。

2017年度の傾向

この指標の提唱者である、フィランソロピストのオーストラリアの企業家スティーヴ・キレリアが2017年の評価を発表しました。

オーストラリアの企業家スティーヴ・キレリア氏


2017年度のサマリーとして3点、1)平和指標は全体平均で0.28%上昇。この上昇は2014年以来のもの。2) 93カ国で指標は向上し、63カ国で悪化。3) 悪化した理由は、国内紛争と近隣諸国との関係性の悪化によるもの。4) #3に抗するべく改善された点は国外紛争と政治テロ。5) シリアは引き続き、平和指標の最下位にとどまっている。6)エチオピアとブルンジは指標が大きく低下した。 7) 北アメリカはアメリカの指標の低下に影響し、全体的に下がった。 8) アイスランドは再び、最も平和な国にランキングされた。9)中央アフリカ共和国とスリランカは大きな改善が見られた。10) 南アメリカは地域として大きく向上した。11) ヨーロッパは地域として最も平和であるが、セキュリティの面で指標は大きく低下した。

2017年度、世界で最も平和な国ランキング
1 アイスランド
2 ニュージーランド
3 ポルトガル
4 オーストリア
5 デンマーク
6 チェコ
7 スロベニア
8 カナダ
9 スイス
10 アイルランド 日本

 平和指標下位10カ国
163 シリア
162 アフガニスタン
161 イラク
160 南スーダン
159 イエメン
158 ソマリア
157 リビア
156 スーダン
155 中央アフリカ共和国
154 ウクライナ
153 コンゴ民主共和国

過去10年のトレンド

2008年以来、平和度は2.14%悪化し、80カ国が向上する一方で83カ国が悪化しました。
67%の国で殺人率が低下、政治的テロ率は低下し、平均的な軍備に費やすレベルは向上しました。一方でテロは広がり、特にOECD諸国でのテロによる死者数は900%上昇、国内紛争は増え、死者数は2015年で97,241人、6500万人が難民となっており、この数は10年前の2倍の数値です。

暴力の世界経済への影響

暴力が経済に与えるインパクトは、約143兆ドル(日本円:1 566.43663 兆)で、GDPの12.6%、一人当たり1,953ドル(21万円)。平均的な暴力のコストは、最下位10カ国ではGDPの37%を占め、一方で平和な国トップ10のGDPではわずか3%でした。戦争や暴力は、経済に甚大な影響を与え、その傾向が紛争中とその後において顕著です。シリアでは、2011年~2014年の間でGDPが53%低下しました。

平和を測ることの意義

これまで、軍需産業が如何に国の経済に貢献したのかという点で戦争が経済に与える影響が述べられることが多かったように思います。そして、それらの指標の分析は技術的にしやすかったと思います。

平和を測ることの難しさは、他でもなく平和という概念の広さと、包括している分野の故です。「ネガティブピース(Negative peace)」、暴力を具体的に止めるということから、「ポジティブピース(Positive peace)」と呼ばれる構造的な問題ー不平等、貧困、人権問題などを含めると概念が包括する分野は一気に広がります。多様な概念をも含んで平和を測ることは、学術的には大きな挑戦でありますが、その意義は人々の平和への不断の努力を知ることができること、そして指標が低下している国に対して国際社会が注意を払うべきことを知ることができることだと思われます。

経済の発展のために平和をというと何とも合理的かつ、人命にかかわる分野を冷徹に金銭に換算すると捉えられるます。そして、指標によって計られたGDPの向上、経済的発展によって起こる問題もあります。しかし経済の安定的発展によって防ぎえる構造的な暴力もあります。経済とは両刃の剣であると思われますが、この指標とそこに向けられる努力は評価されるべきなのではないかと思います。

実はこの平和指標の発表、コスタリカの平和大学で提唱者のキレリア氏が発表した際偶然に居合わせたことがあります。2008年で当時は指標を作り発表して2年目の時でした。あれから10年近くたち、10年というスパンで傾向を見ることができるようになりました。

これからの10年、この指標の値が向上し続けるよう、努力を払いたいと思います。

2016年11月20日日曜日

世界テロリズム指標2016の発表(Global Terrorism Index 2016) ハーグ

11月17日、世界テロリズム指標2016の発表がハーグのシンクタンク、ハーグ国際正義研究所(The Hague Institute for Global Justice)にて行われました。

経済平和研究所の研究所長(Research Director, Institute for Economics and Peace) Daniel Hyslop氏による指標2016年度の要旨の発表、 ハーグテロ対策研究所(The International Centre for Counter-Terrorism – The Hague (ICCT))、ディレクター代理Alastair Reed博士、グローバル・コミュニティ アンド レジリアンス ファンドのAmy Cunningham 氏がさらに論旨を深め、のち質疑応答の時間が30分ほど持たれました。

Global Terrorism Index 2016 Launching in the Hague
Global Terrorism Index 2016 の発表


世界のテロリズムの傾向

2016年は29,376名もの人が亡くなりましたが、テロリズムによる死が前年比で10パーセント減少しています。ISILの本拠地で30パーセント、ボコ・ハラムの本拠地ナイジェリアでは30パーセントの減少が見られました。レポートのでは76カ国に指標の向上が見られました。

一方で、23カ国でテロ関連の死傷者が過去最多。OECD加盟国内での死傷者は650パーセント上昇!! OECD加盟国34カ国中21カ国がテロの攻撃を受け、それらの攻撃による死傷者の52パーセントがISIL(イスラミック・ステート)が関係しています。

テロは、発生地域、加害主体の集中が見られます。加害主体は主にISIL、ISILに触発されたグループ、タリバン、アルカイダ、それら4つのグループが全体の74パーセントを占めています。そして、ISILがボコ・ハラムを抜きました。

ISILとボコ・ハラムは本拠地で勢力が弱まりましたが、その代りにその活動範囲は広がりました。ボコ・ハラムは近隣の国に、ISILもその近隣地域と、少し離れたチュニジア、フランスなどでテロ行為を行っています。

依然としてテロ指標が高い10カ国は、イラク、アフガニスタン、ナイジェリア、パキスタン、シリア、イエメン、ソマリア、インド、エジプト、リビア。OECDでのテロが脅威を与えましたが、多くのテロが見られたフランスは指標の中では29位(フィリピンは12位、日本は67位)、パレスチナに次いでいます。指標の数値や順位を見て一喜一憂はできません。

指標作成に関わった専門家たちは、OECD加盟国とその他の国のテロ発生と関係する要件は異なり、OECD加盟国では社会・経済的要因―(若者の)雇用の機会、軍事化、小型武器の入手が容易であること、認知される犯罪のレベル、政治不信と指摘しています。

一方、OECD以外の国では、汚職のレベル、難民が人口に占める割合、紛争の期間、近隣国との関係、正常の不安定、紛争の激化、紛争による死者などの特徴が挙げられます。

また、両者には共通点があり、暴力的デモ発生の可能性、とりわけ他者の権利の容認や不平等が深くテロの発生と相関関係を示しています。


世界テロリズム指標とは?

Global Peace Index 2016
Global Terrorism Index 2016 世界テロリズム指標2016

世界テロリズム指標(Global Terrorism Index)テロリズムによるインパクトを測るための指標で世界163カ国、世界人口の99.7パーセントをカバーしています。指標は、世界的権威ある世界テロリズムデータベースを元にしています。

指標のスケールは0から10。0はテロによる影響がないことを意味し、数が大きくなるほどにその影響の大きさを示しています。

上記のワースト5の国の指標は以下です。
1.イラク 9.96
2.アフガニスタン 9.4444
3.ナイジェリア 9.314
4.パキスタン 8.613
5.シリア 8.587

参考:日本 2.447

指標は、年毎のテロ活動の数、テロによる死者数、テロによる負傷者、所有物損害のレベルから指標化します。

活動による死傷者のスコアを最大の3として、所有物損害のレベルを2、テロの件数を1、テロによる負傷者数を0.5とします。

スコアの一例
指標 /指標のウエイト/1年の記録/素点
テロリストの件数/1/21/21
死傷者数/3/36/108
負傷者数/0.5/53/26.5
所有物のダメージ/2/20/40

素点合計/195.5    
素点を1~10のスケールにします。

自明ではないテロリズムの定義

テロリズムという言葉はメディアを通じて、日常的に耳にしますが、実は定義はそれほど明確ではありません。何となく、一般市民に加える暴力のようなあいまいとしたイメージがあり、日常的にそれら定義を明確にする必要は考えないでしょう。

しかし、定義作りが必要な理由は、①データ共有の際、②政策立案のため、③法整備をするためと理由は明白です。このようなテロリズムの指標を作る際も、研究・分析のデータ共有の必要性から定義は必要です。

オランダのカールシュミット(Carl Schmitt)は、テロリズムを定義するために指標となる12の要素を提案しています。そのうちのいくつか要素を挙げると、暴力の実践に関するドクトリンがあること、テロ行為が戦略となる状況がある、恐怖、パニック、心配を与える、直接のテロの被害者が窮状や不満を訴えたい相手ではない。同氏の提案はいろんな観点が含まれており、同指標を検証する上で非常に参考になります。

このGTIには国家が支援するテロ行為は含まれていません。それゆえに完全に満足できる指標とは言えませんが、定量化することで感覚で「テロの恐怖がそこまで迫っている」「コワイ」と思うことから、実際はテロの多くはこのブログを書く私や読んでくださっている読者の生活圏から離れたところで起こっていると自覚する一助になると思います。

また、テロによって多くの損害を被っている国がどこで、それが国の援助活動・対テロと言われる支援とどうつながっているのか、批判的に見る助けになると思います。


2016年11月17日木曜日

ベルタ・フォン・ズットナーをしっていますか?

いきなりですが、ベルタ・フォン・ズットナーを知っていますか?

ここでクイズです。
ベルタ・フォン・ズットナーとは
①ノーベル平和賞を初めて受賞した女性
②オーストリアの2ユーロの肖像となった人
③小説家

正解は・・・

全部です。

もし、あなたが平和活動に関心があり、またそういう活動にかかわっている場合、彼女の存在を知っていなかったらもぐりです!

とまでは言いませんが、知っておくべき人物の一人ベルタ・フォン・ズットナーは1世紀前のオーストリア出身の女性平和活動家です。著書「武器を捨てよ!」は有名です。そして、ノーベル平和賞の女性初の受賞者、オーストリアの2ユーロ貨幣はベルタ・フォン・ズットナーさんの肖像です。





昨日、ハーグの中央図書館でベルタ・フォン・ズットナーについてのランチタイムレクチャーがあり、同僚とともにお邪魔してきました。レクチャーはオランダ語でしたので、私はちょっとしかわかりませんでしたが、30分のレクチャーは同僚曰く大変満足できるものだったといいます。


ベルタさんは、1843年6月9日生まれ、ノーベル平和賞を受賞した約10年後の1914年にその激動の人生を終えました。彼女の生きた時代は、軍事競争が激化し、まさに大戦前夜。その中で、戦争のない世界を目指して精力的に活動した作家、女性平和活動家です。

著作「武器を捨てよ!」では、主人公マルタの目を通じて、戦争の悲惨さを伝え、多くの共感を得ました。マルタと執筆、出版時のベルタさんの年齢は同じぐらいだったため多くの人が自伝と思ったようです。

ノーベル賞で有名なノーベルの秘書であった時期もありました。また、執筆活動以外にもオーストリアで平和団体を創設、またドイツの国際平和ビューローに加入し終身会員であり同副会長も務めました。 

当時では、彼女の生き方や主張は過激にも映ったかもしてませんが、先駆的な女性平和活動家でした。



白状しますが、私自身オランダに戻ってくるまで、名前と著作は知っていたけど、具体的な貢献などについては「もう昔のこと」として深く気にも留めていませんでした。

ベルタ・フォン・ズットナー(ベルタさんと以下お呼びします)との再会は、現在ボランティアをしているInternational Network of Museums for Peaceの事務局長(実は不思議なことに、事務局でそのポジションを示す名称がないので、仮にそうお呼びします)がベルタさんに強い関心を示しており、事務局でも何度もその名を聞いたことです。

それから、ベルタさんはオーストリアの出身で、オーストリアにあるPeace Trail の15の場所の一つがベルタさん縁の地です。短い通りは、彼女の名を冠しています。ウィーンは、日本人が観光でよく出かける場所なので、ぜひそれらの場所を巡ってほしいと思います。

Peace Trail in Vienna
Peace Trail (c) discver peace http://wien.discoverpeace.eu/peace-trail-vienna/


*Peace Trailのガイドブックもウェブサイトも英語と現地語のみに訳されているので、日本語版は残念ながらありません。ただ、多くの人がリクエスト(日本語版がほしい!)と言ったら、もしかしたら日本語訳も考えるかもしれません。(実現の確率はわかりませんが・・・、言ってみて損はないでしょう?)



2016年11月16日水曜日

オランダの平和賞―カーネギー・ウォータラー平和賞(Carnegie Wateler Vredesprijs) 2016授賞式

カーネギー・ウォータラー平和賞2016授賞式が2016年11月16日に平和宮 (Peace Palace)で行われ、今年はオランダの外交官で、国連レバノン特別調整官 -シクリッド・カーク (Sigrid Kaag)氏が長年の中東における功績により受賞ました。

Mrs. Sigrid Kaag at Peace Palace
授賞式後、プレスのインタビューに答えるシクリッド・カーク氏


オランダ外交官のカーク氏は、国連移住機関(IMO)で国連でのキャリアが始まりました。その後、国際連合パレスチナ難民救済事業機関(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East、UNRWA)、国連児童基金(United Nations Children's Fund)、国連開発計画(United Nations Development Programme)でアフリカ、中東地域に長く勤務しました。近年は、シリアにおける化学兵器の全廃に特別調整官として尽力しました。



インターネットニュース・アルジャジーラのインタビューに答える映像が残されています。




カーネギー・ウォータラー平和賞とは?
カーネギー・ウォータラー平和賞は2人の歴史的に重要な2人のフィランソロピストの名前を冠したオランダの平和賞と呼ばれ、平和に貢献した団体や人物に贈られます。
。
カーネギーはアメリカの鉄鋼王でしたが、平和宮の建設に貢献した人物であることは知られています。そして、平和宮はカーネギー財団の元、さまざまなプロジェクトや催しが行われています。

一方ウォータラーは、日本ではあまり知られていませんがオランダ人の銀行家でフィランソロピストです。100年前の11月16日、ちょうど式典が行われた日にヨハン・ウォータラーは自らの財を平和賞の創設にささげると誓約しました。

Johan G.D. Wateler
ヨハン・ウォータラー (平和博物館 e-book, Peace Philanthropist - Then and Now)


現存する平和賞では、ノーベル賞の次に古いと言われています。ウォータラーはその財産を言葉や行いによって平和に貢献した個人や団体にささげる賞とすることをオランダ政府に提案しました。しかし、何らかの理由でオランダ政府は拒絶。その代わりに、カーネギー財団にその任を託すことにしました。現在の名前、カーネギー・ウォータラー平和賞となったのは、2004年です。

平和に特化するフィランソロピストについてはこちら、平和博物館発行の「Peace Philanthoropy - Then and Now」をご一読を

式典の様子
5時の開会、歴史家で平和博物館のマーティン・バン・ハーテンがフィランソロピストの本を出版したため、そのスピーチと本の紹介、そして平和賞受賞者の授賞式、スピーチ、歌と音楽ありの式典でした。政治家、外交官、国際司法裁判所の裁判官、研究者、NGOなど、およそ100名が平和宮のICJ裁判が開かれるグレートホールに介しての式典でした。
Carnegie Wateler Peace Prize



国連やNGOで働くことは、とくに称賛されたいと思い始めることではありませんが、その仕事を通じて難しい状況にいる人たちがいることが社会に認識されます。

カーク氏の受賞、心からお祝いいたします。



2016年9月16日金曜日

暴力に抗するには―シカゴの実践から

ドキュメンタリーThe Interrupters (2011) のアメーナ・マシュー(Ameena Matthews)さんがハーグに来て講演するとの情報を得て、ハーグ・インスティチュート・グローバル・ジャスティスの講演会場に行ってきました。




The Interruptersとは?

おそらく日本では上映されておりませんので、ひとまず作品の紹介を。2011年公開の非営利映画製作会社Kartemquin Filmsによる作品。Interrupterとは「妨害者」の意味。妨害者といっても、主な登場人物が暴力的な行為で何かを妨害するというものではなく、人々を暴力のサイクルに陥らないように妨害する人、暴力からコミュニティを守る人たちに焦点を当てたドキュメンタリー。



舞台となるシカゴはアメリカのニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ大都市。人口は大阪市と同じぐらいの270万人。今年1月から現在まで500件以上の殺人事件がありました(同市昨年比でも増加しているとのことです)。これがどれぐらい多いのか、日本と比較してみると、2015年1年間で、日本は933件の殺人事件があったので人口比で考えて、殺人事件、そしてその他の犯罪が日本はもちろん、ヨーロッパなどの都市に比べて多いことがうかがえます。ただ、注目すべきは犯罪がどこで、誰によっておこされているいるのか。そして銃器の使用。

上記の”妨害者”は、疾病の予防・治癒のような手法で、暴力の予防に取り組みます。暴力の根源を突き止め、それらに効果的な治療を施します。社会にこれを適応すれば、暴力的でかつ周囲に影響を与えている人物を特定し、彼らと接し、彼らのもつ社会的規範を変えていきます。

規範は社会学用語ですが、簡単にいえば行動のよりどころとされている社会からの期待とも言えると思います。犯罪に手を染める若者には彼らの所属するグループにおける”規範”があります。学校文化、社会がよしとするものへの反発、暴力をカッコイイとする規範を仲間うちの中で築いていきます。それらを若者たちに叱咤激励、寄り添いながら、そして信頼を得て、変えていきます。

アメーナさんの話
アメーナさんとはだれか?ドキュメンタリーで取り上げられた3人のうちの一人、唯一の女性。アフリカ系アメリカ人、そしてイスラム教徒。お父さんはギャングの親分で、現在は収監中。
ドキュメンタリーの話というよりは、彼女がどのような環境で育ち、誰から影響を受けたのか、などまるで近所の人との世話話を楽しむように、聴衆に話し聞かせてくれました。


アメーナ・マシューさん(左)、司会のアビ・ウィリアムさん(右)
家族の話では、両親の話はあまり出ず、おばあちゃんがどのように彼女を育てたのかを話してくれました。おばあちゃんの知恵と影響のためか、自分の家があまり貧しいと思ったことはなく育ったといいます。おばあちゃんは「○○だから、△△できない」とは言わなかったといいます。ある日、友達の家に行ったときにカラーのテレビがあり、それらを見てなぜうちにはないのか、そこで貧しさについて他の家と比較して気がついたそうです。

いろいろな人生のエピソードにふれましたが、その一つとして、学生時代の話がありました。学校の先生が、彼女が触れると黒くなる、あるいは彼女が触れたものを触ると(間接的接触で)黒くなる皆にいったそうです!まったくありえないような先生がいるもので驚きましたが、彼女は本当なのかと、わざと他の人のボールペンを使用し、体操着の名前を塗りつぶして着用したそうです。それで本当にそれらを使用した人が「黒く」なるのかと、ためしたようです。

エピソードが次から次へと出てきて、さまざまな登場人物が出てきて、話を追うのが大変でしたが(笑)彼女の話には彼女のおばあちゃんからの、あるいは彼女の経験からくる名言もちりばめられており、聞きもらすまいと私を含め、聴衆は必死だったはず。

会場の様子
1時間という時間内で、彼女のライフストーリーを聞き、そして質疑となる予定でしたが、質疑のための時間があまり残されず少々残念でしたが、会場は彼女のパワーに圧倒されていた様子。

会場は女性の参加者が多く、講演後彼女と個人的なコンタクトを持ちたい、質問したいという人たちが列を作りました。私もそのうちの一人でしたが、結局人が多すぎて質問ができませんした。その代わりどさくさにまぎれてちゃっかり一緒に写真を1枚とりました。



最後に、彼女の話とドキュメンタリーの肝は一体なんだったのか?暴力に暴力で抗しても望む結果「暴力からコミュニティを守る」が得られないということ。暴力は病気の病状に似て、そこに至る積み重なった原因があるのだから、それに根気強く対応しないといけません。

アメーナさんのおばあちゃんの、「be persistent!」、根気強く、粘り強くなれというアドバイスは、妨害者としての活動の中で、粘り強く若者に接し、コミュニティを暴力から守っていくという彼女の活動の中に活きていると思いました。

そして、「生」と「死」という選択肢があるのであれば、明らかに「生」を選択すべきだと力強い言葉が印象に残りました。「死」は解決ではなく、暴力の敗北的帰結なのだと私は理解しました。
。

2016年9月5日月曜日

フィリピン、テロとの戦い-ダバオナイトマーケット爆破事件

フィリピンでは、ドゥテルテ政権の下、2つの戦争―ドラッグとの戦い&テロとの戦いが進行中です。先日のダバオ市の爆破事件は、特に比政府のテロとの戦いを激化させました。これらの闘いに勝利はあるのでしょうか。

Davao crocodile park
ダバオ市のワニ園にて撮影 2009年


テロとの戦い
アブサヤフによる未成年者の斬首事件
アブサヤフは、フィリピンそしてアメリカでもテロに指定される団体で、フィリピン南部のホロ島やバシラン島などのスールー諸島及びミンダナオ島のサンボアンガ半島などを拠点で活動していおり、近年は組織的誘拐(誘拐ビジネス)によりその活動資金を得ている。先月末、誘拐された未成年者がアブサヤフの手により斬首されました。それを機にミンダナオのスルー州で大規模な掃討作戦を行っています。

ダバオのナイトマーケットの爆破
フィリピン、大統領が長年市政を務め、現在は大統領の娘が市長を務めるダバオ市で9月2日金曜日の夜ナイトマーケットで爆発事故が起こり14名が死亡、67名が負傷するという事件が起こりました。

(C) APF ダバオ事件後の様子



無法状態宣言(State of Lawlessness)
事件後、外国人誘拐事件を繰り返す、アブサヤフが犯行声明をだしました。これに対して、ドゥテルテ大統領はフィリピン全土に無法状態宣言(State of Lawlessness) を発令しました。2003年に全体大統領グロリア・マガパカル・アロヨがダバオ市限定に発令しました。これは、以前マルコス政権時代に発令した厳戒令は異なります。

**無法状態宣言(State of Lawlessness)って何?
1987年憲法で、大統領は無法な暴力を防止あるいは抑圧するために軍を招集することが許されています。
18項、7条で、フィリピン共和国大統領は、必要があればフィリピン国軍の指揮官となるとされます。大統領は軍を招集し、無法な暴力、侵略、反乱を防止し抑圧するであろうと記されています。

大統領の非常事態や国家の危機的状況に対する措置は3つの段階があります。まずは今回の措置、その上の段階は権力は、国民としての特権である人身保護礼状を一時時にさし止めし、裁判を経ずに捉え収監することが許されるようになります。最終段階が厳戒令です。

無法状態宣言(State of Lawlessness)とは具体的にどういうことなのか。
チェックポイントを増やし自動車やバイクの検問を実施、軍はその基地を離れて外でパトロールをすることになり、一般国民の目に多く触れることになります。
ミンダナオは例外的に軍人を高速道路沿いでよく目にしますが、私が生活していたビコール地方では勿論、他の地域では見られない光景です。また、夜間外出禁止も場所によっては指定されると思われます。

大統領ならやりかねないと思いつつ、私はこの措置にかなり驚きました。ダバオやミンダナオだけであるならまだしもフィリピン全国、無法状態宣言(State of Lawlessness) は行き過ぎた措置なのではないでしょうか?まず、行き過ぎた警戒で、返ってテロリストたちへの過剰反応であると見られてしまい、宣言の発令が投資に影響すると考えられるためです。

「処刑OK?ドゥテルテ大統領の過激な麻薬対策」

今後、厳戒令にまで引き上げるとは思いませんが、テロとドラッグ問題は重複すると警察庁長官が発言し出し、より暴力が公に許されてしまうことが懸念されます。アブサヤフが犯行声明をだしているものの、政権の就任以来の過激な麻薬対策+超法規的殺害に対する反応とも見られているためです。テロリストと麻薬王が重複する?あるいは協力体制にある?と。

しかし、そうだとしたら政権の用いた暴力に対する「暴力」での応酬とも見られます。一部国民および在比外国人はこれで治安がよくなると大統領を支持しますが、フィリピンは一部暴力がはびこる地域があっても法治国家であるということ、そして過激な政策には報復として過激な反応(カウンター)があるということを忘れてはいけません。

また、憲法により明記されているこの大統領が有する権利、行使が適切であるのか、国民は常に目を光らせておかねばなりません。



2016年8月29日月曜日

英雄?故マルコス大統領英雄墓地埋葬を巡って

8月29日はフィリピンピンは英雄の日で休日*でした。

英雄の日は、フィリピンの国家建設に命を賭してまで尽力した、有名・無名の男女個人をたたえる日で、地域によってはパレードなどの催しがあります。

フィリピンでは誰が一体英雄なのでしょうか。
ホセ・リザール(Jose Rizal)、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)、アポリナリオ・マビニ(Apolinario Mabini)、マルセロ・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)、スルタン・ディパトゥアン・クダラット(Sultan Dipatuan Kudarat)、フアン・ルナ(Juan Luna
) メルコラ・アキノ(Melchora Aquino)、ガブリエラ・シラン(Gabriela Silang) スペインの独立に尽力し、スペインの後に来たアメリカに抗した人物たちです。(この中で何人の英雄を知っていますか?)


ラモス政権時に国家英雄委員会が1995年に定めた基準により、上記の人たちが政府によって認定されました。それでも勿論、人によっては英雄の定義がことなります。

フィリピンでここ一、二カ月話題となったのは、故フィエルディナンド・マルコス大統領のマニラのタギグ市にある英雄墓地(Libingan ng mga Bayani)埋葬問題。ドゥテルテ大統領が故マルコス大統領の亡骸を故郷のイロコスから英雄墓地に移動すると発言し、論争を巻き起こしました。

特に8月はニノイアキノデー、そして上記の英雄の日もあり、フィリピン国民にとって英雄とは一体誰なのか、再考する日とそしてその英雄たちにならいアクションを起こす日となりました。

故マルコス大統領は英雄か?
フェルディナンド・エドラリン・マルコス(Ferdinand Edralin Marcos 1917年9月11日 - 1989年9月28日)は、第10代フィリピン大統領。20年間にわたって権力を握り、独裁体制をしいたが1986年の人民革命(エドゥサ革命)によって打倒されました。その後はアメリカ、ハワイに亡命し病死。20年の政権時代、行方不明者、警察・軍権力者による女性のレイプ、活動家の投獄と超法規的殺害は多数。そして不正蓄財と権力をほしいままにした人物です。

2016年大統領選の期間中に故大統領の息子で、副大統領に選出したボンボンマルコス上院銀が、独裁政権を正統化する発言をし、メディアでも話題になりました。シンガポールの初代首相が亡くなった際、「エドサ革命が起こらず父の政権が続いていれば、比はもう一つのシンガポールになれたであろう」と言い、また、一部のフィリピン人はその間、フィリピンは経済的にも強く、秩序もあったといいます。

秩序と言っても見せしめのための処刑、公権力を使った恫喝・恐怖政治を敷いていただけのこと。経済の発展よりも自分の懐を肥やしていたのは他の政治家と全く変わりはありません。例えば、現在は建設はとまっているバタアン原発については、マルコス元大統領や協力者が当時8千万ドルもの賄賂を受け取っていたことが裁判資料から明らかになっています。

国家の英雄や異人が他の国では、そうではないことはよくあることですが、これだけ自国の国民を苦しめ、そして搾取した人物が「英雄」の列席に加わるというの納得がいかないのは勿論のこと、国民の反発が出てしかるべきことだと思います。

国民の反応
埋葬問題に関してマルコス政権下の人権被害者を支援する民間団体セルダが、計画の差し止めを訴え、各地域では大規模な反対デモが組織されました。国民の意見は明白のように思われます。

先日も私が教えてたアテネオ大学ナガ校で500名ほどが参加する大規模なデモが組織されました。学生たちが横断幕を持って「Marcos is NO Hero」マルコスが絶対にフィリピン国のヒーローでないことを訴えていました。

(c) Naval 2016



実は、2016年の選挙運動時期、大学教員の間で危惧していたことは、若い世代が独裁政権について知らなさすぎるのではないかということでした。実際、若年層の故マルコス大統領の息子、ボンボンマルコス議員の人気が高かったためです。選挙期間中の公開ディベートの歯切れの良さが若年層の人気を高めたようです。

サポーターはこと息子、ボンボンマルコス上院議員に関しては、親の行ったことが子どもに影響し、そのつけを払わされるというのは不当であるといいます。確かにそうかもしれません。ただ、彼が家族の一員として受けた不正による恩恵は、分別ある大人、そして公人として顧みる必要があります。上記のように傲慢にも父親が行った独裁が平和と秩序をもたらし、国を繁栄させたとは口が裂けても言えないでしょう。

Marcos is NO hero!
故マルコス大統領は外国人の私の目から見ても英雄とは言えません。はじめに挙げたフィリピンの英雄たちは国家の重大事に関わり、命を賭してまでも自らを貫いたフィリピン男女たち。彼らと最終的に私腹を肥やし(スイスの銀行に口座がある)、妻イメルダを役職に着かせ、自らに牙をむくものは国家権力を用いて黙らせる、そんな故マルコス大統領を英雄たちと同列に扱うことは出来ないのはないでしょうか。

昨今のインタビューでドゥテルテ大統領が故マルコス大統領を英雄ではないと認めています。更に第二次大戦中に受賞したと言われるメダルも偽物であったことが証明されても、意地でも彼を英雄墓地に埋葬すると言い張る大統領はもはや英雄墓地の意義を変えようとしているのではないかと思う感もあります。もしくはお得意の「冗談」あるいは「ちょっと言ってみただけ」と大衆の怒りを交わすのでは・・・。ただ、今回はそんな大統領の笑えない冗談に付き合う余裕はないようです。


*この英雄の日は特定の日にちはなく、毎年8月の最終月曜日です。


合わせて読んでね>> ニノイ・アキノデー8月21日-暗殺から30年、事件を振り返る-
参考:President Bongbong http://opinion.inquirer.net/88032/president-bongbong

#Marcosisnotahero

2016年8月18日木曜日

靴が語る過去: ドナウ川遊歩道の靴

古く美しいヨーロッパの景観を保つ、中欧の都市ブダペスト。とりわけ、ドナウ川にかかる橋から、眺めるライトアップされたブダ城や国会議事堂は、ドナウの真珠と言われるにふさわしい眺めです。

budapest


そんな美しいドナウ川土手に“Shoes on the Bank of the Danube(ドナウ川遊歩道の靴)”と言われるホロコーストの記念碑があります。映画監督Can Togay(カン・トガイ)氏が着想、彫刻家のGyula Pauer(ジュラ・パウア)氏によって造られました。

Shoes on the Bank of the Danube


記念碑は40メートルの長さ、川から70センチほどの幅で、鉄で作られた60足もの靴がドナウ川に向かう形で脱ぎ捨てられています。持ち主不在のその靴は、観光客の足をひきとめ、かつてこの地で起こった悲劇を静かに語っています。

1945年1月8日の夜、反ユダヤ主義を掲げる民族政党矢十字党がスウェーデン大使館に亡命した154名をかき集めた。彼らを川岸に立たせ、射殺しました。これが、矢十字党によるユダヤ人大量虐殺のはじまりでした。

矢十字党党員は、59日間に約3,600人を殺害したと言われています。一回の“処刑”で平均30名を殺害し、その遺体は、ドナウ川に投げ入れられました。

処刑場所となったのは、ペスト側では、Szent István Park, Franz Josephの土手, ブダ側では、Batthyány Square, Szilágyi Dezső Squareなどです。セーチェーニ鎖橋での処刑が規模が一番大きかったようです。今となっては、日中観光客あふれるそれらの場所からは、そうした凄惨な事件があったことが想像ができません。

Budapest


殺害されたそれらの人々はユダヤ人でした。ユダヤ人たちはユダヤ人の象徴であるダビデの星が印された家に移され、後にゲットー(ユダヤ人たちが強制的に住まわされた居住地区)に移動させられました。これで、ユダヤ人と他のハンガリー人の別が出来るわけです。

隔離、そして処刑とユダヤ人にとって大変過酷な時代でしたが、勿論それを見ていたハンガリー人の心も穏やかではなく、中にはユダヤ人を匿った市民、また中には宗教者Sister Sára Salkaházi(後にカトリックで列福される)も居ましたが、彼らも共に殺害されました。

これらの史実は1989年まで公に語られることはありませんでした。また、差別主義者、反ユダヤ主義者による言説は続いており、今でも非常に繊細な問題といえるでしょう。

しかしながら、2010年にはドナウ河川の延長をした際、迫害されたユダヤ人たちを救おうと尽力した人物たちの名前*となりました。

こうした記念碑は世界各地、とりわけヨーロッパには多いように思います。人一人の命が尊ばれない時代があった、そして今もそうなのですが・・・、とても暗く悲しい気持ちになります。過去は決して変えられませんが、学んで、繰り返さない誓いを持つことがこうした記念碑を訪れる意義ではないかと思います。

*Count János Esterházy, Slachta Margit, Angelo Rotta, Sztehlo Gábor, Friedrich Born, Raul Wallenberg, Nina és Valdemar Langlet, Salkaházi Sára, Jane Haining and Carl Lutz .

参照:Peace Trail Budapest

Peace Trailを歩く: ヨーロッパで戦争の足跡と平和への試みを追う

2度の世界大戦を経験したヨーロッパ。ヨーロッパ各地を訪れるとそれら戦争にまつわるモニュメント、博物館、資料館などを目にします。第二次世界大戦が終わり71年が経ちますが、それらの記念碑の故、多くの戦争を経験していない世代の我々も時代の爪痕を学び、今の時代に生きる意味を考えます。

Discover Peace (c) ブダペストの地図

こうした考えを深め、学びを促進すべく、ハーグの平和博物館ネットワーク(現在私がお手伝いしている団体)など、ヨーロッパの平和系団体や各地の行政などが中心となり、ヨーロッパの7都市(パリ、ベルリン、ブダペスト、マンチェスター、ハーグ、ウィーン、トリノ)に戦争にまつわるモニュメント、人々がどう平和を壊し、またそれを取り戻すべく努力したのか・・・縁の場所巡りを推奨する、マップが作成されました。

マップはオンラインバージョンと、ハンドブックサイズのものがあります。写真と共にその地にまつわる事件、出来ごと、その顛末などがコンパクトに書かれております。

両ハンドブックは残念ながら日本語バージョンはありませんが、簡易な英語で書かれているために、上記地域にお出かけの際は、現地で是非入手して、持ち歩くことをおススメします。私の生活するハーグでは、平和宮で1ユーロで入手可能です。

各地域での配布先は、Discover Peaceのウェブサイトに掲載されています。

ただ、入手先に行けない場合は、地図のみのダウンロードは可能です。ただし、説明はないので予め回る場所の説明をPDFファイルなどで携帯に入れておくか、プリントアウトしておくと便利です。Peace Trailと言われる順路と場所のいくつかは、多くの観光客が訪れる場所ではないため、見つけづらい場合もありますので、事前によくご確認を。

実は今回、上記に挙げた7都市のうちの2つ(ブダペストとウィーン)を夏休みを利用して旅することになりました。ウェブサイトにある、地域を訪れてみることにしました。

2016年7月9日土曜日

歴史教科書問題に解決は見られるのか(2):歴史家の役割

歴史教科書問題に解決は見られるのか(1)では、歴史的不正義とは何か、その要素の記述を見ました。被害者、加害者などの関係者、関係者がまだ存命中、あるいは既に亡くなったという時間制、生きている被害者と加害者の別、そして存命中あるいは既に亡くなっている関係者のアクションなど。それらを元に歴史的不正義について、歴史家は何ができるのかについてAntoon教授は引き続いて講義した。

各国のケースについて、パネリストが発表


歴史的不正義に対し、歴史家が出来ることは「責任ある歴史記述」。責任ある歴史記述とは、正確さと誠実さ。正確さと誠実さがある歴史記述は、民主主義を強化し、歴史的不正義に対する闘争を助け、正義を増進するアンプリファイアー(増幅器)の役割をする。

歴史的不正義を学ぶことは象徴的な償いをすることである。弁証法的に述べるのであれば、民主的な社会は、社会的な不正義が少なく、社会的不正義の被害者に対する関心が非民主的社会よりも高い。人権は、民主主義を促進する。人権は、不正義に対する闘いを強化する。

もし我々が歴史を学ばないのであれば、歴史における不正義が起こる可能性が増すことを意味する。過去の歴史的不正義を追究せず、真相を究明せず、罰せず、学ばず、そして教えないことは、決して民主主義を強化しえないのである。

では、実際歴史的不正義をどうやって教え、学ぶのか、それはもっともな根拠がある歴史解釈を教えること、そして過去の(誤っている/正統な根拠に基づかない)歴史解釈を拒絶すること。

そのように責任ある歴史記述を追及していくものの、歴史的不正義を学び・教えることは歴史の機密性、虚偽、沈黙の3つの理由から難しい。

機密性には、真実を詳らかにすること、情報を得ることを努力することで対処し、虚偽には論駁と論争、沈黙には認識・承認することを持って答える。しかし、それでも歴史家が歴史的不正義の問題に対する時に直面する問題がある。

まず誰が歴史的不正義の被害者であるのか。被害者を特定するのは被害者の沈黙の故に難しい。沈黙の故に、被害者が何を考え/感じたのか、我々が知ることが難しい。そして、それら(直接・間接的)被害者をどのように追悼すべきか、そしてどの程度、どのような方法でもって行うことが望ましいのか。

第二に、倫理・道徳的審判を歴史家が下すべきであるのか。表現の自由から判断を下すことも、同時に下さぬことも許されているが、どちらをとっても非常に困難である。判断を下す場合は、勿論判断するに足る十分な証拠がなければならないこと。それでも価値判断からは自由となりえないため、①各時代(epoc)の持つ価値、②自らの持つ価値、③普遍的な価値(国連の人権宣言などにあらわされる)の三つを常に意識し、その違いをよく認識しなければならない。

判断を下さぬことも許されるが、しかし歴史的な検証を続けていき、目を覆いたくなるような人権の侵害や被害者の惨状を目の当たりにした時にはむしろ倫理的・道徳的な裁きを下さないことがむしろ難しいのでないだろうか。

第三に、一般大衆が歴史的検証をどのように受け止めるのか。史実の正さが充分な論証を持ってなされても一般大衆がそれを受け入れない可能性もある。また、過去の悲痛な歴史を詳らかにすることで、過去の傷に触れることになる。一般大衆は、それらの過去に耳を傾けることを躊躇するであろう。



↑会場の様子がビデオに(私も密かに映っていますw)

まとめとして、歴史家は裁判官ではない。それ故に、歴史的な事件に対して審判を下せない。しかしながら、歴史家によって責任ある歴史記述が果たす役割は個人、社会に対して大きい。ゆがめられた理由を正し、機密性・虚偽・沈黙を破る。直接的・間接的な被害者に象徴的な補償をもたらしまた、民主主義を強化し、過去の世代が犯した歴史的不正義を現世代に認識させうる働きがある。歴史教育に携わるものの役割は大きい。



歴史教科書問題に解決は見られるのか(3):会場の様子、反応 >>
<< 歴史教科書問題に解決は見られるのか(1) 


2016年7月6日水曜日

歴史教科書問題に解決は見られるのか(1)

日本・韓国・中国の歴史教科書問題に解決は見られるのか。

条件付きで、そして近隣諸国との関係を良いものとするために、積極的に取り組むべき問題としてYESと答えたい。しかし、歴史教科書、そして歴史認識問題の近年の動向を見てもなかなかポジティブに解決すると簡単には言いきれない現実がある。

日・中・韓の間で、歴史の認識と解釈、特に第二次世界大戦中の日本の植民地支配、歴史的事件を巡り大きな議論となり、外交問題になって久しい。特に近年は、橋下議員の慰安婦発言(国際的なニュースになった)、それら歴史認識に反発するように、アメリカや韓国各地(在韓日本国大使館前)の慰安婦像設置され、その数も増えている。また、中国が世界記憶遺産に南京大虐殺を登録したことなどが記憶に新しい。

ここハーグで7月6日、Teaching for Peace - History in Perspective conferenceが行われたので、出席した。主催はNGO Forum for Peace in East Asia。会議の参加者の多くは韓国で、歴史を教える高校・大学の教員、教科書の著者が多い様子、その他私のようにオランダ在住の人たちであった。
感情的にヒートアップしてしまいやすい問題だけに、どのように会議が進行されるのか、怖くもあり興味もあった。午前中をいっぱいに使った会議では複数のスピーカーやパネリストが会議の方向性、狙い、そして事例などを発表したが、中でも、オランダのグロ二ゲン大学Antoon教授(歴史家)のレクチャーは、短い時間での発表にも関わらずよく整理されており、非常に説得力のあるものだったので、ここにレクチャーの内容を紹介したい。

歴史的不正義とは何か、歴史家は何が出来るのか。教授の発表はこのタイトルに忠実で、一つ目のポイント歴史的不正義とは何かと定義、そこに含まれる要素についてポイントを押さえた説明の後、二つ目のポイント歴史家あるいは歴史教育に携わる人が何が出来るかについて議論した。

不正義とは、全ての戦争犯罪を含めた行為、それらの過去からの蓄積。それら不正義には、必ず犠牲者がいる。犠牲者には犯罪から直接的に影響を受ける直接的犠牲者と直接的犠牲者の家族(親族は含めない。ここでは、家族とはどこまでが含まれるのかも議論の1つとなる。)である間接的犠牲者がいる。また同時に加害者もいる。加害者とは犯罪行為の実行者であるが、加害者には直接・間接の別はない、なぜなら誰かに危害を加えるという行為においては「間接的」であるということはないから。

また歴史的不正義というときに、時間的に遠くはない昔、最近に起こったもので、被害者・加害者ともにまだ生きているRecent injustice と被害・加害者ともに時がたち過ぎているためになくなってしまっている、Remote injustice がある。
生きている加害者には、法的な裁きを行えるが、既に亡くなってしまっている場合は勿論、その罪状を追求し、法的な裁きを下せない。同時に生きている被害者には、補償がなされなければならない。

国連は補償の5つの形を提唱している。1. Restitution (補償:被害者が被害に遭う前の状態に戻すこと。例:自由を得ること、人権の回復すること、人権、市民権、家族、生活していた土地に戻ること、財が返還されるなど。), 2. Compensation (賠償:精神的・肉体的苦痛、機会の喪失、道徳的なダメージによってもたらされる経済損失への賠償)、3. Rehabilitation (被害者への医療・精神的なサポートを含む)、4. Non-repetition grantee (二度と繰り返さないという約束)、5.Satisfaction (象徴的な補償:公式謝罪、遺体の捜索と改葬、法的制裁など) 

ただ、これらの5つの内4つは生存している被害者には有効で5番目に挙げた象徴的な補償は既に亡くなった被害者に有効である。また、remote injustice (被害・加害者ともに既に他界している)場合もこの象徴的な補償をもって対処されるべきである。

歴史的な不正義とその要素は上記の通りであるが、これらを踏まえて歴史家あるいは歴史教育(NGOワーカーも含めて)携わるものは何ができるのか。
参照資料
THE UNITED NATIONS BASIC PRINCIPLES AND GUIDELINES ON THE RIGHT TO A REMEDY AND REPARATION FOR VICTIMS OF GROSS VIOLATIONS OF INTERNATIONAL HUMAN RIGHTS LAW AND SERIOUS VIOLATIONS OF INTERNATIONAL HUMANITARIAN LAW
http://legal.un.org/avl/pdf/ha/ga_60-147/ga_60-147_e.pdf

2016年6月30日木曜日

イギリスのEU離脱の衝撃-オランダの場合

1週間前の6月23日木曜日にイギリスのEU離脱を問う国民投票が行われました。その結果は、52パーセントが離脱、48パーセントが残留と離脱派が上回り、離脱が決定しました。
ここヨーロッパでは、勿論連日連夜ニュースで報じられ(現在もです)、人々の話題に挙がっています。テレビを付けるとそればかりなので、旦那は情報が過剰すぎると言っていますが、それに同意しつつも無理もない話だと思います。
EUの中心のベルギー、ブリュッセル
あらためてEUとは
EUは、欧州連合(European Union)の略、現在28カ国の連合体、1993年11月1日のマーストリヒト*条約(欧州連合条約)発効により創設されました。ヨーロッパ内で再び戦争が起こることを抑止することを願い創設されました。

マーストリヒト条約でEU設立の目的が記されています。
(a) 域内国境のない地域の創設、及び経済通貨統合の設立を通じて経済的・社会的発展を促進すること、
(b) 共通外交・安全保障政策の実施を通じて国際舞台での主体性を確保すること、
(c) 欧州市民権の導入を通じ、加盟国国民の権利・利益を守ること
(d) 司法・内務協力を発展させること、
(e) 共同体の蓄積された成果の維持と、これに基づく政策や協力形態を見直すこと  
(Treaty on European Union , 外務省)

EUは、経済統合に加え、政治統合の推進を目指す、包括的で大きな機構です。
*マーストリヒトは、オランダ南部の都市。

経済の統合について言えば、EU間は関税がないので、EU圏内の経済の活性化が測られます。
人の移動については、それとは別途、協定が結ばれています。シェンゲン協定といい、ルクセンブルグのシェンゲン村で締結され、これに締結している国の間では入国審査なしで行き来が自由となります。しかし、EUに加盟しているのにシェンゲン条約に加盟していないイギリス、EUに加盟していないもののシェンゲン条約を締結しているノルウェーなどの国もあります。

EUの歴史をちょっと
1952年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足し、のち1958年にEEC(欧州経済共同体)を発足、経済の統合を目指しヨーロッパのより一層強い統合をはかっていきました。その後EC(欧州共同体)として、前2者の共同体とEURATOM(欧州原子力共同体)の主要機関を統合しました。そのECが現在のEUの前身です。このように徐々に基盤と信頼をつくり、はじめは6か国だったのは現在は28カ国となりました。

イギリスEU離脱派の主張
離脱派の主張は、「国としての主権を回復する」こと。離脱派の前ロンドン市長ジョンソン氏をはじめとする離脱派は、、増える国民の税負担、失業率の増加、治安の悪化、イギリス古来の文化の喪失を懸念していました。
EU離脱で、EU加盟国が払う負担金や、他の加盟国へのサポートして払われるお金(ギリシャ危機)などからも自由になります。

昨年だけで難民125万人がヨーロッパに来たとされてます。難民が到達した国々では、彼らを路上で生活させることは出来ないため、シェルターに連れて行き、その後難民申請を行い、受理されたら、その国で生活となります。(おおざっぱな説明となってしまいましたが、実際は細かいプロセスがあります。)

文化、言葉が異なる国からの移民となるため、社会的統合には時間がかかり、その間は受け入れ国がサポートします。そのサポートが税金からとなって居ることが受け入れ国側の不満となっていたりします。特に、ヨーロッパ諸国の税金は高いので、税金にみあった社会サービスをローカルが受けられなくなる?のではという声も出てきて不思議ではありません。

また、都市部の近年見られるようになった慢性的な混雑は、人口増によるものですが、EU圏内からの移民によってのものと言われています。

残留派の主張
ヨーロッパの金融市場の中核と言う地位を失う、そしてEUの混乱が起こることを懸念。
イギリスが離脱すると、EU内のパワーバランスがドイツに大きく傾くことになります。それを快く思わぬ国が離脱、EUが解体していくのではないかという懸念があります。

ただ、実際彼らの(いまとなっては)失敗は、離脱したら経済的損失が大きいというものの、それが当に脅しのようになり、移民の問題について提案が出来きませんでした。

イギリスEU離脱のオランダ人の反応
EU離脱で起こるとされていることにイギリスポンドとユーロの信用低下、価格の下落、景気の後退はよく言われることで、オランダ人の友人は経済におけるインパクトを懸念します。何せ、イギリスはオランダの重要な貿易国ですので。

なので、大方のオランダ人は英国の決断を残念な気持ちで受け止めています。先日もちょっとした会合に出席した際に、開会の辞でEUの離脱について触れていました。勿論、コメントは「とても残念だ!」とのこと。

ただ、オランダ人の友人は、もう起こってしまったことなのだから、次にどう進むかだとのこと。しかしオランダでも、EU離脱を叫ぶ人たちもいます。離脱を訴える政党は徐々に議席を伸ばしつつあり、英国の離脱が他の国に与える影響―離脱の選択肢を国民に考えさせる心配が僅かながらあるもの事実です。

オランダの難民
オランダ人は「節約家(別の言い方をするとケチ)」な人種と言われますが、こと社会問題、誰か助けが必要な人が居たら身銭をきれる、ポリシーある節約家(ケチ)であります。
中東地域からの難民がオランダにも相当数おり、彼らにニーズを提供することに関しては「義務」と思っている節があるようです(勿論、国民全体というわけではありませんが)。
シリアからの難民が難民申請をした場合は、かなり高い確率で難民申請が受理されるようです。ただ、他の地域例えばイラン出身の難民は申請しても受理されるとは限りません。これは別に差別しているというよりは、国としてシリアの現状をみて、その国からの難民に比重を置いているという意味です。

オランダ人の友人が今シェルターでボランティア活動をしているとのことですが、彼女のイラン出身の友人はゲイで、イランの自宅に留まっていたら厳格な父親に殺される(父親も帰ってきたら「殺す」と言っているそうです。どうやら脅しではないようです。)と、逃げてきたとのことですが、彼のケースは命が脅かされているケースであるものの、申請しても受理される可能性は低いようです。

オランダに生活するイギリス人
オランダに生活するイギリス人の法的地位は今後結ばれるであろうイギリスとオランダの二国間あるいはイギリスとEU間で結ばれる条約によるところが大きいのは勿論のこと。既にオランダで生活している英国民をいきなり追い出すことはできません。新しい条約取り決めによっての登録が義務付けられることでしょう。ただ、もうEU市民ではないので、EUに関する投票権、オランダで行われる選挙への投票権はなくなり、オランダ国内で働いている人の家族の呼び寄せに影響がでることでしょう。

長期で滞在するイギリス人は今後のことを懸念し、オランダ国籍にアプライすることを検討している人もいるようです。
(DutchNews.nlより)

保守党の政治的なガス抜きを狙った安易な国民投票の約束が招いた結果で、アナリストが指摘するように、キャメロン首相の根拠なしの楽観という感はぬぐえません。彼の退任の挨拶はかっこよかったんですけどね。

今は蜂の巣をつついたような騒ぎですが、暫くしたらイギリス抜きのEUとして機能していくに問題はないと思いたいとことですが、これによってEUが解体するのではと危惧するのは上記のように言い過ぎではないかもしれません。大きな視点で見ると、反グローバリズムへの動きの1つなのではないかと・・・思うこともなきにしもあらずです。




2013年11月19日火曜日

フィリピン台風-被災した実家を訪れた友人の話

台風で壊滅的なダメージを受けたタクロバンを家族の捜索のために訪れた友人がマニラに戻っていると連絡を受け、彼女とひと時お茶をしました。

彼女とは入学年が異なりつつも一緒にスキューバーダイビングを楽しんだり、お茶をしたりして頻繁に会う仲の良い友人。そのため、一週間前に彼女が家族の捜索のためにタクロバン入りをする話を聞き、驚きそして心底心配しました。

11月8日に直撃した台風から一晩、眠れぬ夜を過ごした友人は翌日にはタクロバン入りを決意、そしてつてをたどりアメリカの軍用機に乗り込んで現地りを果たしました。彼女の実名と破壊された彼女の実家はUSA TODAYに「Searching for loved ones in typhoon's devastation」でインタビューと共に掲載されています。医療品が積みこまれた軍用機から彼女は実家を目撃し、写真に収めています。

おりたつべき空港も流され、至る所ががれきの山。彼女の到着は比較的早かったため、回収されていない遺体も至る所にあり、道すがらそれらを見ました。公共の交通手段が機能していないために数時間歩いて生まれ故郷のタクロバンの生家に到着。骨組みのかろうじて残った家を見て愕然としたと同時に、その場にいた親族に家族の無事のニュースを受けました。

両親との再会、これまでにないほど強く両親をハグしたようです。私自身も昨晩、マニラに戻った彼女に同じことをしたので、生存の安否を気にしていた家族であればなおさらです。

家族の安否を確認して、どういうわけか友人の口から出来てた質問は「私の部屋はどこ?」、両親たちは大爆笑だったようです。上述の通り、骨組みのみが残る家には、家具が洗い流された後に外から入ってきた泥水、そして瓦礫が占有しています。家族が団欒を楽しんでいたリビングルームからは泥に埋もれた子どもの遺体があり、のちに近所の子どもが行方不明となっていたのでその子どもではないかとのことでした。

台風のその日、水は5メートルほどの高さまで上がりました。台風の当日両親は避難所には行かず、自宅で過ごし難を逃れたと言いますが、ある種これほどひどくはなるまいという楽観的観測があったように思います。湾岸都市、タクロバンもとりわけダウンタウンはその地理的な条件故に今回の台風の中幾度となく高波が異なる方向から襲いました。

家族の安否を確認した後に街を歩くと瓦礫の山そして遺体。中でも子どもを強く抱いたまま溺れた母親の遺体を見た時にはやるせない気持ちになったといいます。

生存者も瓦礫などで怪我を負い、国内外の医療チームが治療にあたっていますが、麻酔なしで簡単な外科手術を行わなければならないこともただあり、友人は家族を亡くし誰も付き添うものが居ない患者の手を手術中ずっと握っていました。

また、台風の高潮に襲われ家族の全てを失った8歳の女の子にも出会ったといいます。彼女は強風と高潮が収まるまでずっとヤシの木にしがみついていたといいます。

現在彼女の家族はマニラの彼女のアパートにて生活しています。家は破壊しつくされ、彼女の実家もそして街も復興にどれだけ時間がかかるのかわかりませんが、台風の巨大化そして進路が南に傾きつつある昨今、災害に強い街を作るのと同時に「地球の温暖化は本当に進んでいる」という友人の言葉の通り、温暖化の対策と個人・社会の責任を強く意識するものです。


2013年11月18日月曜日

ミンダナオPeace Camp (1) :全体の様子

10月31日から11月8日まで、フィリピン、ミンダナオ島、キダパワンで行われたピース・キャンプに参加しておりました。このピース・キャンプは特にIP(先住民族)、クリスチャン、ムスリムの若者をつなぐ、平和という観点から行われた人材育成のプログラムです。

実施団体はBinhi ng Kapayapaan. Inc(平和の種)、(以下ビンヒ)という団体です。代表は教育者/活動家(NGOワーカー)である、フィリピン人女性、私たちの間では母親的な立場であるためナナイ・アンゲ(Nanay Angge)、アンゲお母さん。彼女が、フィリピンの平和関係に携わる人を巻き込んで始めた活動です。ピキットのピースゾーンを作るのに尽力されたバート牧師も創設メンバーの一人です。元々はアレリアノ大学を母体としておりましたが、今は独立してNGOとして活動しています。

9日間の日程で行われた今回のキャンプは過去5年の集大成でした。通常このようなキャンプ/トレーニングは一過性で、一度参加したらそれ以降は参加しないのですが、3つのグループの若者の関係を強固にするため5年というタームを持ってキャンプやワークショップを実施してきました。今回は、これまで参加してきた彼らの「卒業」の時であり、代表も一歩退いて若い世代が代表の役割を担うことになる、まさに団体としても変化の時でもありました。数年間参加した若者は高校生であった者は大学生に、そして大学を卒業して、それぞれの専門分野で既に働いている若者のたちもいます。

フィリピン人はお話し好きで、大家族で育ったためか非常に人との関係を作るのがウマいのですが、地域性が強く一つにまとまるのが本当に難しいと言います。5年間をかけて徐々に束ねて行った様子が伺えます。

約50名の参加者は、キャンプ中仕事や学校の都合で早く帰らねばならない者や途中から参加する者もいましたが、それによって雰囲気が変わるというわけでもなく皆で和気藹々と過ごしました。

国道から見えるピースガーデン
キャンプのコンテンツは、歌や踊りなどの情緒的なもの、あるいは宗教的なもの、これまでのキャンプの中で彼らが作った儀式的なもの、知性よりはどちらかというと感性に訴えるワークショップ、そしてゲストスピーカーによる話、クライマックスがミンダナオで紛争を経験した地であるピキットでのピース・ウォークでした。

私はゲストスピーカーの一人として、広島の原爆の話、そしてどうやって平和活動に携わるようになったのか、先方からリクエストを受けた内容を盛り込んで話させていただきました。また、2歳の時に被曝し、若くして亡くなった佐々木貞子さんの話をした後に皆で折り鶴を折ったりもしました。

大まかなスケジュールは以下
10月30日マニラからダバオ、キダパワンの宿泊・研修施設へ移動
10月31日ミンダナオ島からの参加者と合流
      開始
11月1日オリエンテーション、キャンプへの期待、キャンプの歴史、ゲストスピーカー(1)「ミンダナオ和平プロセス」
11月2日ゲストスピーカー(2)「コソボの紛争」、ワークショップ「私の平和への旅路」
11月3日ゲストスピーカー(3)「原爆、そして平和活動」
11月4日ゲストスピーカー(4)「平和活動に携わる女性」、団体のこれからについてディスカッション(1)、リーダーの選出(投票)ゲストスピーカー(5)ピキットについて
11月5日ピース・ウォークの準備、
11月6日ピース・ウォーク、式典@ピキット、バランガイ・タケパン
11月7日団体のこれからについてディスカッション(2)、クロージング
11月8日リフレクション
11月9日移動(キダパワン-ブキッドノン)、先住民族のコミュニティでの儀式に参加
11月10日移動(ブキッドノン-カミギン)
11月11日~13日カミギン滞在

盛りだくさんの内容は現在振り返り消化しているところです。

それにしても、人が育っていくのは自分を含めて時間がかかるのだと改めて思いました。団体の名称通り、平和の種が播かれ芽を出したと言ってもいいかもしれません。その象徴が、クライマックスのピキットでのピースフォーク、NGO、地元住人、教員、兵士、警察も参加しました。「平和は達成可能」それを観たピキット出身の参加者が口にした言葉です。

平和にちなんだ試みは数多く行われていますが、平和の可能性そしてそのプロセスをフィリピンの若者が自分の事として感じるには十分な期間であったと思います。

※11月13日マニラに戻る予定でしたが、フライトのキャンセルのため、14日マニラに戻りました。


2013年11月17日日曜日

フィリピン台風被害の支援-何が出来るのか?

ミンダナオでの平和キャンプを終えて戻った後、キャンプを主催したNGOのミーティングに参加し、台風の被害を見聞きして受けた印象、あるいは親族との音信が途絶える家族への心配の思いを共有し、カトリック教会の呼びかけに応じて被災者への祈りをささげると同時に今後個人として、また団体として何が出来るのかを話し合いました。

会議参加者から聞かれた声
皆から聞かれた言葉は、驚き、悲しみ、痛み、しかし希望もあるといったものでした。会議を参加した大半の会議参加者が、Peace Campに参加していたため、インターネットあるいはテレビが見られる環境になって状況の深刻さにまず驚愕しました。家族、親族と連絡がつかないため心配する気持ちを抑えられない、あるいはテレビの映像を観て思わず涙を流したと言います。そして多くを失ったことへの痛み。しかし、困難な状況はこの個性ある地域に分断された国が一つの方向を向いてくきっかけではないかという声も聞かれました。フィリピン人は皆仲が良いので一つにまとまりやすいと思われがちですが、実際は古くから地理的な分断により独自のコミュニティを作ってきてきたため地域主義が染みついています。皆が同じ方向を向いて国を考えるチャンスなのだろうと考えたと言います。痛みを伴いつつもその起こった意味を捉えようとしている様子でした。

この間、政府の対応のまずさが批判の対象になっていますが、地域の政府を持って動く中央政府は地域政府に勤める役人自体が被災しているために出来ることが限られているようにも思われます。日本の震災の時もそうだったと思います。そうした状況で、政府の対応が十分ではないとどこまで言い切れるのか。それを予想して対応できるほどの資源も予算もあるのかも不確かであるため、私自身も含めて政府の非難より政治的意志の統一と動員がどこまで可能か、そしてそうなることを望む声が多く聞かれました。それと同時に海外からの迅速な支援に励まされるという声が聞かれました。

被災者への祈り
枢機卿タグルは、会議の行われた16日土曜日を追悼と希望の日として、祈りによる団結を呼びかけました。懺悔と瞑想、そして断食を呼びかけました。夜6時には教会の鐘が鳴り、一月前のボホールでの地震、そして今回のスーパー台風の被災者のために祈りを捧げました。
大きな災害が起こると宗教的意味合いと結びつけられる土地柄です。タクロバンを聖書のソドム・ゴモラの町に結び付け人々が話す声も聞かれます。また、他の宗教からはカトリックへの批判、教会の腐敗の故に罰が下ったという人もいるのだとか。今日の祈りの日がレイテ島の被災者たちを無言で糾弾するものではなく、個々人の深い内省に結びついたらと思っております。

何が出来るのか
個人、グループ、短期、長期の視点でざっくり話し合いました。詳細は来週のリーダーミーティング(なぜか私も投票によりリーダーに選出されましたので・・・)に持ち越しですが、以下がおおよその話し合いの結果です。

個人としてすぐに出来ることとして挙がったのは
-FBでポジティブなメッセージを拡散し、団結を呼びかけること
-寄付
-自分の生活習慣を変える

団体として出来ること
-サイコソーシャル(Psychosocial)、心理的手法を用いての被災者支援のためのボランティアトレーニングと派遣
-団体のメンバーに一日30分、夜の9時から9時半まで電気を消す、そして瞑想の時間を持つ

自分の生活習慣を変えると言うのは、台風の巨大化が地球の温暖化による可能性が高いため、今回の台風を警告として捉えて自分の生活を改めるということでした。環境活動家は、仕組みの変化の重要性を強調し、こうした個人の取り組みを軽視する傾向にあると思います。電気も留めておくことが出来ないので使わなくてもその分を発生させる仕組みがもう出来上がっている・・しかし、それらの事実を認識しつつも啓蒙的意味合いを持って30分の消灯など決めたわけです。台風を止めることは出来ないまでも台風をもしかしたら巨大化させないための温暖化への取り組みは、個々人としても社会として取り組まねばならないことだと感じます。なので被災者支援へのサポートも大切ながらも、環境問題にどう取り組むのか具体的な策の必要性を強く感じます。
瞑想の理由は、情報と物質に溢れるこの社会で衝動に抗らう力を高め、不安を軽減するなどの効果があるためです。シンプルに生活を営む一つきっかけとなるのではと思います。

最後に
寄付が何より有難いものの、台風が来るたびに対処的に援助を行っている状況に何とも言えぬ疲労感を感じます。自らも何か出来る道を探りつつも、地球そのものの環境の変化と捉えて、まずは自らの足元から考えるべきだと自分自身思った次第です。

懸念は、今は被害に遭った直後であるために世界的な注目を集めていますが、あと一カ月もしないうちに人々はこの災害を忘れさられることです。またタイミング的には年末年始、お金も必要になります。しかし、被害が甚大であったため、長期的な支援が必要になります。
寄付を考えている方にお願いしたいのは、少々待って頂くこと、そして一カ月、二カ月後に現地の人たちと直接のつながりを持つ団体への寄付して頂くことをおススメします。更に言うと、環境に優しい生活をして浮いたお金を寄付して下さったら嬉しいと思っております。温暖化が巨大化する台風の原因と訴えるなら(汗)その負の貢献をしている先進国や便利な生活を居住する都市部に生きる人々にも大きな非があるとも読みとれるのですが、それなら「罪滅ぼし」のためのお金よりも、原因に対応する形で少しでもお金が集められたらいいのではと思った次第です。

被災者支援ですが、缶詰もそうですが可能な限りローカルのマーケットで物資を購入し、現地の人に食事を準備してもらい、その代価を払う仕組みを作り、缶詰やインスタントラーメンなどで偏りがちな栄養、そして大量のごみが支援物資によってもたらされない援助を行っているローカルの団体もあります。そうした団体を時をみてご紹介していけたらと思っております。














2013年9月7日土曜日

国際平和の日(International Day of Peace)を祝う

 国際平和の日(International Day of Peace)、通称ピースデーのこの日は平和、特に戦地なら一時的に停戦とするように推奨される日で、フィリピンでもこの日に現地のNGOによってイベントがおこなわれ、滞在期間とこの日が重なると必ず出席しています。

[国際平和の日の始り]
 1981年11月30日の77回目の総会で、コスタリカとイギリスの発案で国際平和の日が、国連の決議36/67として決議され、9月の第3火曜日(総会の通常会期が始まる日)を平和の理想を強化する日としました。しかしながら、1989-1996年までの間に大型の武力紛争は減少傾向を示すものの、既存の国家権力への挑戦を重点とする新型の紛争が見られるようになり、平和の日は無視され続けてきました。

[9月の第3火曜日から固定の9月21日へ]
イギリスのフィルムメーカーであるジェレミィ・ギリがロビーイングにより関係政府に働きかけをしながら、2001年9月7日の決議55/282で、9月21日に固定された日になり、紛争地域に一時停戦を呼びかけるようになりました。2001年9月11日、当時の国連事務総長であるコフィ・アナンが、メディアに向けての発表を行い、国連の平和の鐘を打ちイベントを行うという時に、ワールドトレードセンターへの旅客機衝突、アメリカ同時多発テロ(911)として知られる事件が起こり、イベントは中止、ニューヨーク国連ビルに集まったメディア、式典参加者は避難を余儀なくされました。
 この平和の日、正確には人々の平和を望む人々は、来る対テロ戦争などでその日が意味するところを試されることになります。何とも波乱な平和の日、第二章の幕開けでした。

Peace Wallの序幕式(2009年)ケソンメモリアルサークル
にて
[フィリピンでの国際平和の日を祝うイベント]
 滞在中のフィリピンで、平和の日のイベントに度々参加してきました。毎年行われているケソンメモリアルサークルでのイベントでは、主にケソン市のNGO、Gaston Z. Ortigas Peace Institute、ミリアム大学の平和教育センター、Peace makers circleなどが中心となりながら、コンサート、ゲームなど気軽に楽しめる企画をし、大小様々な団体が参加しNGOなどのブース展示もします。
 同日に和平プロセス担当大統領顧問室(Office of Presidential Advisor on the Peace Process:OPAPP)がフィリピンの商業都市であるマカティ市のショッピングモールで、音楽とこれまでの活動の発表をするイベントも開催されました。当日動員されたであろう多くの警察官たちがいたのが印象的でした。

[参加した感想]
 公園、あるいはショッピングモールでの開催で一般の人の目に触れる場所でありますが、それでもやっぱりまだ、マイナーな日であることは変わりません。現在生活するオランダの街の学生たちに国際平和の日にワークショップをしようとという話をしたら、それはいったいどういう日なのか?と聞かれました。国連の定めた記念日などよほどの機会がないか、ニュースとならない限りは知らなれないと思います。私が国際関係などに興味を持つ前などは、かろうじて「世界のこどもの日(11月20日)」、「女性の日(3月8日)」などは聞いたことがありましたが、それ以外はあまりなじみがありませんでした。
 世界で起こっている出来事に対して、わずかながらも考える余地を生みだすのが、啓蒙としての国際記念日の良さですが、実際はあまり知られていない日が多いということと、それがメディアとしてのニュースバリューをあまり持ちえないという難しさがあると思います。だから、国際機関のみならず国内のキャンペーンでも著名な人たちに関わってもらうことで認知度を上げるようにつとめます。啓蒙、イベントを打ってお金がかかり、数値的な結果がすぐに見えないけど、何もしなければ何も始まらないのですが、難しいところです。

[日本ではどうだろうか?]
 これまでの平和運動の経緯で、平和とその活動自体が参加する人達の(政治)思想によって平和が解釈され、特定の政治体制、国に偏った批判とその批判を行う団体と理解されていると感じます。また、「平和」だれもが反対出来ない言葉ながらも、どこか現実を無視したような愚かな理想主義的な響きすら感じさせてしまいます。
 フィリピンでは昨年2012年の10月フィリピン政府と、モロ・イスラム解放戦線(MILF)との間に歴史的な和平講和の枠組み合意がなされ、40年にも渡る紛争が一つの大きな区切りを迎えました。現在は、両者で今後の詳細を決める話し合いが続いていると言います。上記のような平和団体による活動による成果と言うよりは何よりも政治的意志が強かったと思いますが、フィリピン政府の組織OPAPPで交渉に携わってきた女性は上記に述べたNGO出身でした。草の根の視点を知りつつ、政府に批判的な姿勢を少なからず持っていると思いますが、それでも平和構築の重要な一役担いました。NGOなどの国に比べると小さな組織と、政府とのつながりのダイナミズムを感じました。フィリピンだから出来たのでしょうか? 
 
 最後に、平和な場所から、平和を訴えることは何とも愚かなことと思われるかもしれませんが、所謂先進国と言われる豊かな国が考え、そして果たせる政治的、かつ経済的な役割は大きいと思います。多国籍企業は、紛争地にもその支社を持ち影響を持っています。そうした国や企業が紛争に関わる中で大きな影響を与えてきたということは繰り返し言われてきたことです。「紛争ダイヤモンド」などは分かりやすい例ではないかと思います。

 今年の平和の日は、オランダ田舎街(なんて失礼な!)でワークショップを行います。それまでに現在の夫婦喧嘩の停戦、和平講和にのぞみたいと思います。

2013年9月4日水曜日

Youth Acty!! ‐若者にオルタナティブはあるのか?

私は学生ではありませんが、NPOのIVUSAさんが発行する大学生のためのフリーペーパー、Youth Acty!の制作に関わっております。
 学生に覇気がない、あるいは守りに入っているなど、いつの時代もですが、学生を含めて若者全般に関しての文句は一向になくなりませんが、「このままでいいのか?」と問題意識や危機感を持ち、何か行動したいと思っている大学生や若者は昔より確実に増えており、その彼らの背中を多少なりとも押すような情報を提供できたらと思い、フリーペーパーの制作を始めました。

 既存の経済至上主義や競争原理に対するオルタナティブな価値観やライフスタイルを、同じ若者・大学生の視点から提案・発信していくとともに、「何かしなくちゃ」と感じている大学生や若者に社会へのアクションのきっかけを提供していくという高い志と健全な好奇心のもと雑誌をつくり始めて早、5年です。

 5年の中で、8回ほどの発行といささか少ないようにも感じられますが、基本姿勢としては毎回大学卒業などで入れ替わる編集者の関心、そして世の中の方向を見ながらテーマを決めて、編集側も学びを深めていく形で発行していきます。

 これまでの企画で、学生らしさ全開の特集は、ダッ●ュ村企画であったと個人的には思います。
学生が東京を離れ、また携帯、パソコンなどの使用を禁止して、自給自足で生活し、その体験を記事にするという体当たりな企画。既存の雑誌にもこうした企画物はありますが、手作りの豆腐、五右衛門風呂、近所の人との物々交換など、数日でいろいろ体験したようで、私も参加したかったと思いました。
 これまで社会への訴求が大きかったテーマは、無縁社会。この言葉の生みの親である、板垣 淑子さん(NHK報道局社会番組部報道ディレクター)、若者を中心に労働相談のサービスを提供しているPOSSEの青木 耕太郎さん(一橋大学)と、ホームレスや生活困窮者、ワーキングプアの問題に取り組んでいる自立生活サポートセンターもやいスタッフの冨樫 匡孝さんなどへのインタビューはレイアウトをしながら、いろいろと考えました。
Youth Acty! のインタビュー記事はこちら→(http://www.youthacty.net/interview/569)

 関わりで学んだ大切なことは、「思いのほかあった若者の力」でした。あれ、若者と活動している
から、若者に対してポジティブで、若者の力を信じているのでは?とよい意味で勝手に思われていますが、残念ながら違います。
 若者に対するネガティブな印象は、私の大学生活にはじまっています。親にサポートされてふにゃふにゃ生きている若者がある種妬ましく、まったく同年代ながら受け付けられない存在でした。自分で生きているわけではないのに、一人前ぶったり、若者の特権と言いつつ(当時の私から見ると)理解不可能なことをしたり・・・そのあたりの突き放し感はいまも変わりませんが、若者だからできることというマジックワードに潜む実態を見て少々見方が変わりました。
 彼らはカオスを内包している。きれいな言葉だと、可能性なのでしょうが、あえてカオスと呼ぶのは、彼ら自身も実態が分かっていないから。もっと年をとって経験を積む混沌が集約されていきます。カオスから夜、昼が生まれたように。色んな意見を取り入れて、自分なりに吟味して、価値観を形成していく時期故に、形作られていく力を感じます。

 若者の力は、更に海外だとより強く感じます。特に途上国と言われる国々は若者の人口比が非常に高く、彼らの政治への影響力は侮れません。日本ではそのあたりは、若者の投票率の低さからも見る通り、弱いと言わざる得ませんが、今後の政治教育と参加次第ではと思います。Youth-Acty!最新号は「僕たちのマニフェスト」と題して、7月の選挙に絡めて、労働・雇用政策、政治参画政策、エネルギー政策などを特集しました。

 近頃はどうかわかりませんが、日本の大学は入るに難しく、出るには易しい故、大学時代を自分を形作る期間としてどうデザインするか、「自分の人生を生きるのか」それとも「他の人の生きる人生を模倣をするのか」の分かれ目ではと思います。
 
最新号のPDFはこちらのウェブサイトからダウンロード可能です。http://unitedyouth.blog96.fc2.com/blog-entry-20.html






 

2013年9月2日月曜日

アンネの日記の舞台を訪れる - アンネフランクハウス‐

 アンネ・フランクは、「アンネの日記」の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれ、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家は故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命しました。
アンネフランクハウス(Anne Frank Huis)は、オランダのアムステルダムにあり、アンネ・フランクの一家を含めた8人が1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れるため隠れ家として住んでいた家を利用した博物館で、現在アンネ・フランク財団が管理運営を行っております。オランダ訪問の際は立ち寄るべき場所であると思います。

 博物館自体はそれほど大きなものではありませんが、二年間隠れ住んだ屋根裏、アンネの日記の原本、当時の反ユダヤ主義を回想させる展示物など歴史的な資料も見ることができます。また訪問者が人種差別について考える映像を交えた仕組み等があり、展示物を見て考えたことを反芻できる場所となります。

 この隠れ家で生活していたのは、アンネ・フランク、オットー・フランク(アンネの父)、エーディト・フランク(アンネの母)、マルゴット・フランク(アンネの姉)、ペーター・ファン・ペルス(アンネと恋愛関係になる少年)、ヘルマン・ファン・ペルス(ペーターの父)、アウグステ・ファン・ペルス(ペーターの母)フリッツ・プフェファー(歯科医)の8人。彼らの名前は日記では本名でつづられていません。8人のうちで生き残ったのがアンネの父、オットーフランクでした。アンネは、ドイツ軍からの解放を待たず、姉のマルゴットが亡くなって2,3日の後腸チフスのため強制収容所にて亡くなりました。

 8人が隠れ住んだ場所は、1階、2階部分はオフィスとして使用されいた場所で、3階4階部分を隠れ家として改装して使用していました。部屋は8人が生活するには少々狭く、事務所が開いている日中は音に相当気を使わなければならないものの、それでも個々人のプライバシーは確保され、家具なども事前に運ばれて準備をされていたために自由はないながらも、生活は営めたようです。隠れ家では、そうした難しい事情ながらもユダヤ教の祝い事や誕生日なども祝われたといいます。アンネフランクハウスの内部は残念ながらカメラ撮影禁止ですが、youtube(Visit The Secret Annex Online in English, Dutch or German!で検索)で内部の様子を映像として公開されていますので、視聴おススメです。
 
アンネの日記は60か国語以上に翻訳され、多くの人に読まれ、またこれまでに映画化(アニメ化)がなされ、世界一有名な日記帳ですが、これまでに日記については様々な論争がありました。日記のオリジナル性を問うもの、ねつ造疑惑等です。日記は14、5歳の少女が書いたものとしては早熟であったということ、日記にはオリジナル版と清書の2つが存在し、どちらも完全な形では残っていなかったため、のちにオットー・フランクにより、両原稿を相互補完する形で編集されたため、本人の筆ではない等などの批判がなされました。ちなみにオリジナルは辛辣な批判、(特に母親に対する)も含むため、削除された箇所もあります。そのような理由から後に鑑定が行われ、最終的にはアンネ本人が書いたものと結論付けられたといいます。
 また、そもそもアンネフランクなる人物は存在しなかったという批判がなされ、裁判になりました。後に一家を逮捕した秘密警察を探しだし、アンネフランクが実在の人物であるという証言を得ました。いくつかの法廷論争が後に起こったのですが、判決からアンネは存在していたし、アンネの日記は価値ある書籍であるという結論は変わらないと思います。そして、2009年にはユネスコの世界の記憶にも登録されています。

 アンネの日記とともにおススメが、ビィクトール・フランクルによって書かれた「夜と霧」。強制収容所での過酷な生活の記述とともに、いかなる人生の局面においても人間の内面とそこに宿る何かを忘れないことが生きる力となるという感想を持ちました。人間の心理、内面への洞察が哲学的であり、収容所を体験した個人の記録としても非常に意義深いのですが、深い哲学性故にこれまでに多く出版されて来た収容所の体験談以上に長く読まれているのだとおもいます。

[アンネフランクハウス]
電話 020 556 7105
ウェブサイト http://www.annefrank.org
Youtube http://www.youtube.com/annefrank
Twitter http://twitter.com/annefrankhouse
所在地 Prinsengracht 267 1016GV Amsterdam

2013年9月1日日曜日

ヴェステルボルク通過収容所を訪れて

身近な人が亡くなることを悼むのは自然の心情。彼らとの関係から、自分の一部が亡くなるように私は感じます。しかし、まったく会ったことがない人が亡くなることにはそれほど繊細にならないのではと思います。敏感に彼らの死を感じるとしたら、それは恐らく彼らの人生の一部を何らかの形で知って、一時でも彼らの状況を想像する、感情移入する時、あるいは自分の経験と照らし合わせて彼らの状況を慮るときなのではないでしょうか。ニュースなどで聞く他人、そして多数の死は数以上に何も意味を持たないものなのでしょうか?全てに敏感になっていたら身がもちませんが、彼らをそういう状態に置く、暴力を憎む気持ちを持ちたい、そして歴史を学ぶためこうした場所に極力訪れるようにしています。

 ヴェステルボルク通過収容所は、第二次世界大戦中、オランダのユダヤ人やジプシー(ロマ民族)、レジスタンスなどの人たちがオランダの外、とりわけドイツ、ポーランドにある絶滅収容所や強制収容所へと移送されていく通過点になった場所です。1944年8月4日、アンネフランクの一家はゲシュタボによって隠れ家を発見され、その後8月8日に移送され、アウシュビッツ強制収容所に移動されるまでの約一カ月をここで過ごしました。残念ながら交通の便があまり良くはない場所にある博物館ですが、オランダにお越しの際は来られたらよい場所かと思います。

 ヴェステルボルク通過収容所の博物館の展示は、大きくは2つに分かれています。一つは通過収容所と収容者たちの生活、そしてその当時の情勢などが時系列に説明されています。もうひとつは、手紙や証言など個人の記述、証言によってこの歴史的出来事を学べるスペース、とくに16歳以下の子どもたちがオランダのフトのキャンプからソビボル強制収容所に移送されその直後に虐殺された史実について焦点を当てております。博物館そのものはそれほど大きくはありませんが、展示物から歴史を学ぶことが出来、当時の様子、そして収容された個々人の人生、彼らの感情、そして家族とのつながり等を強く感じました。

 1941年、ドイツ軍は全てのユダヤ人をオランダの国外に強制退去させることを決定しました。ユダヤ人がシナゴーグを中心としたコミュニティを形成していることを知る、ドイツ軍はそれらリーダーはドイツ軍の意向に従うべく協力を強制されました。国内全てのユダヤ人は登録を強制され、登録をもとにヴェステルボルクに一時的に移送されます。勿論、強制退去の後に強制収容所で虐殺されることを聞き、登録をせず潜伏そして中には抵抗運動に加わる人たちも居ました。

 強制移住に際しては、手荷物はたった一つのスーツケースあるいはバックパックのみの携帯を許されました。収容所の登録に際して、全ての貴重品とお金は没収されます。収容されたユダヤ人たちの望みは、この通過収容所に解放される日がおとずれるまで、一日でも長く滞在すること。キャンプ内で仕事を見つけることで、長く滞在出来ることから、収容された人々は仕事を探すことにつとめたといいます。
 親衛隊(SS)は、通過収容所での生活を一般的な街のそれと変わらぬように努めたと言います。人々は結婚し、子どもも生まれ、病人は手厚い看護を受け、子どもたちは学校に通い、キャンプには劇場、図書館そして、シナゴークもありました。キャンプには期待と絶望の異なる感情に支配されていたといいます。

 通過収容所がユダヤ人たちを収容そして、オランダ国外に彼らを移送開始したのが1942年7月15日、1943年初頭から毎週の移送スケジュールが組まれるようになりました。毎週火曜日、1,000人ほどの収容者が移送させられ、1945年4月にカナダ軍に解放されるまで合計93回、10万人以上が通過収容所から強制収容所に送られました。
 35,000人がソビボルに送られ19人だけが生き延びました。62,000人がアウシュビッツに送られ1,000弱が戦中を生き延びたと言います。それらの強制収容施設に送られてすぐにガス室に送られた人々、そしてその他の人たちは、極めて過酷な強制労働に従事させられました。ベルゲン・ベルゼン強制収容所(Bergen-Belsen)、 テレージエンシュタット(Theresienstadt)に送られた8,000人のうち4,000人が生き延びたと記録されています。

 102000回:母、父、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、姪、甥、友人たちが殺された。
 (博物館内の展示物、説明文から) 
印象に残った記述は、未熟児として生まれた赤ちゃんの話。通過収容所に来る6日前に生まれた赤ちゃんは3カ月の未熟児。赤ちゃんの体重はたったの2.5ポンド(約1.1㎏)。通過収容所に到着と同時に、保育器に入れられ、その後体重は5.5ポンド(2.5㎏)まで増えましたが、その後すぐにアウシュビッツに送られたといいます。

 展示されている手紙や記述から、訪れた人は戦争について考え、戦争に対して嫌悪を抱かざる得ないのではないかと思いました。
 けど、実際の国際政治の文脈に合わせると、「仕方がない」と様々な事情から思い、理由をつけます。戦争の理由はいくつもあります。国の独立を維持するため、国防のため、迫害を受けている人たちがいるので保護する責任として、復讐、同盟国が戦争に関わっているから・・・
 国際的道義として、懐疑主義的、国家中心的道義主義、そしてコスモポリタンという異なる見方がありますが自分のコスモポリタンな側面が刺激されたように思います。自分自身、国際政治は、個々人からなる社会の問題とまでは突き詰めて思わず、また絶対的平和主義者ではないものの戦争や圧倒的な暴力をなくす努力、あるいは極力小さな規模で、そして初期で留められる方法はあるし、それを追求すべきであると強く思います。
 暴力を憎む心を持つことの重要性を考えつつ、実際の国内外の政治でそれらの思いがどういう形で反映されるか、現在のシリアの情勢も鑑みて考える日々です。
  

 

 

2013年8月28日水曜日

デモ-非暴力行動で社会に変化を起こす-

 8月25日、ナショナルヒーローズディ、休日の今日、フィリピンでは連日メディアをにぎわせているナポレス事件から、優先開発補助金=PDAFをめぐる汚職を防ぐために、リザール公園でデモが行われました。友人たちもリザール公園に参じた様子がFacebookの写真などからも見られます。10万人が集ったと言われるデモはエドサ革命の10分の1の人数ながらも現政権に大きなインパクトを与えたと思います。

 ナポレス事件こと、優先開発補助金=ポークバレルの不正受給事件が発覚して、一カ月以上経ちますが実際の汚職の規模、関係者の数はまだ今の時点では断定出来ていないようです。監査のできた410億ペソ、内61億ペソ強が活動内容に問題のある82団体(NGOなど)の772事業に、上院議員12人、下院議員180人のPDAFが使われたことが判明しています。

 議員自身が団体運営に関与、複数の団体の代表に同一人物が就任、入札などの公平な手続きを経ず議員の息のかかった業者を選定、支出に対して文書を残さず決定、団体の法律で定められた公的な登録がなく、所在地が不明、本来の目的を逸脱した資金の流用。どれ一つをとっても公的資金の拠出先とはなりえぬような団体であり、監査の甘さが糾弾されざる得ません。

ポーク・バレルとは
 通称ポーク・バレル:pork barrel(豚肉貯蔵用の樽)は、米国を起源とする政府事業助成金を意味し、フィリピンでは、議員の裁量によって事業を特定できる予算を指しています。優先開発補助金:Priority Development Assistance Fund(PDAF)が正式な名称です。ポーク・バレルは、南北戦争期に奴隷に塩漬け豚肉を与えたことを語源とされています。

ポークバレルの歴史
 フィリピンの議会制度は、アメリカ植民地時代の1907年に始まり、コモンウェルス(独立準備政府)発足の過程の中で形成され、その際にポーク・バレル制度も導入されました。大戦後の1946年独立以降、大統領制・二院制議会制とともにポーク・バレル制度も継承されました。
 1972 年のマルコス大統領の戒厳令布告を契機に、ポーク・バレル制度は大統領の特権となり政治的関心、利権の拡大のために使われたといいます。1986 年のエドサ革命によりマルコス政権が崩壊し、1987 年憲法の公布により大統領制・二院制議会制が復活し、ポーク・バレルはそのまま制度として残されました。
 1989 年にミンダナオ開発資金とヴィサヤ開発資金が、それぞれ政府支出金によって設けられ、北部のルソン地方を含めた全国的な開発資金として、 1990 年に全国開発資金( Countrywide
Development Fund:CDF )が設けられ、すべての下院議員・上院議員の選挙区における開発計画が推進されることになりました。2000 年、CDFは優先開発支援資金(Priority Development Assistance Fund:PDAF)に改称されました。
 
 この資金は、比較的国会の審議には通りづらい政治的関心が少なく、そして小規模のプロジェクトに対して使われていると聞きます。特に地方で、中央政府の手が行き届かない場所など、地元の政治家故に通じる事情で、プロジェクトを進めていくことが可能で、まったく完全なる悪ではないと言います。

しかし、この一カ月、フィリピンをにぎわせている今回のジャネット・ナポレス事件では100億ペソもの膨大な補助金が存在しないプロジェクトに、そして少数の利益に流れ、やはりこの補助金が汚職や不正の源泉になることを示しました。また、ポークバレルやその他公的資金をもって建設された建造物などに政治家やその親類の名前が入っていることがあります。法律で政治家が売名行為として、公的建造物の名前に自らの名前をつけることは禁じられていますが、その政治家の名前そのものではないにせよ、祖父など親族の名前などがでかでかとペイントされ、または建物が立てられたそばのターポリンバナーにはその政治家の写真と名前がしっかりを入っています。
 
 8月25日のデモはアキノ政権発足してから最大規模と言われます。アキノ大統領は、制度の見直しと改善を図ることを述べていますが、完全な撤廃を要求する声が高くデモの参加者10万人、そして参加は出来なかったものの今回の事件を発端に見えてくる汚職の全貌に怒りをあらわにした市民たちが、存続を許さないことだと思います。

 事業家で現在逃亡中のナポレスが捕まったら、事件の全容がもっと明らかになるのでしょうか。事実を知ることの大切さ言うまでもないのですが、市民がいったん収拾した事件から教訓を得ても、許し、忘れてしまうのではと恐れます。実際、マルコスの夫人イメルダを筆頭に、本来政治家としての資質が疑わしい政治家がいまだに選挙に出て、票を得ています。それは、政治が世襲化されているということも大きな構造的な理由ですが、どこか汚職を許してしまう体質があるのではないかと思います。アキノ政権でこうした事件が明らかになったことは、政権任期中にとっては一大事ですが、体質改善の千歳一隅のチャンスだと思います。汚職に徹底的に対する政治を掲げてきたアキノ大統領、不正に微塵の隙間も与えぬ政治を任期いっぱいやりぬいてほしいと、部外者ながらも感じます。