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2016年7月9日土曜日

歴史教科書問題に解決は見られるのか(2):歴史家の役割

歴史教科書問題に解決は見られるのか(1)では、歴史的不正義とは何か、その要素の記述を見ました。被害者、加害者などの関係者、関係者がまだ存命中、あるいは既に亡くなったという時間制、生きている被害者と加害者の別、そして存命中あるいは既に亡くなっている関係者のアクションなど。それらを元に歴史的不正義について、歴史家は何ができるのかについてAntoon教授は引き続いて講義した。

各国のケースについて、パネリストが発表


歴史的不正義に対し、歴史家が出来ることは「責任ある歴史記述」。責任ある歴史記述とは、正確さと誠実さ。正確さと誠実さがある歴史記述は、民主主義を強化し、歴史的不正義に対する闘争を助け、正義を増進するアンプリファイアー(増幅器)の役割をする。

歴史的不正義を学ぶことは象徴的な償いをすることである。弁証法的に述べるのであれば、民主的な社会は、社会的な不正義が少なく、社会的不正義の被害者に対する関心が非民主的社会よりも高い。人権は、民主主義を促進する。人権は、不正義に対する闘いを強化する。

もし我々が歴史を学ばないのであれば、歴史における不正義が起こる可能性が増すことを意味する。過去の歴史的不正義を追究せず、真相を究明せず、罰せず、学ばず、そして教えないことは、決して民主主義を強化しえないのである。

では、実際歴史的不正義をどうやって教え、学ぶのか、それはもっともな根拠がある歴史解釈を教えること、そして過去の(誤っている/正統な根拠に基づかない)歴史解釈を拒絶すること。

そのように責任ある歴史記述を追及していくものの、歴史的不正義を学び・教えることは歴史の機密性、虚偽、沈黙の3つの理由から難しい。

機密性には、真実を詳らかにすること、情報を得ることを努力することで対処し、虚偽には論駁と論争、沈黙には認識・承認することを持って答える。しかし、それでも歴史家が歴史的不正義の問題に対する時に直面する問題がある。

まず誰が歴史的不正義の被害者であるのか。被害者を特定するのは被害者の沈黙の故に難しい。沈黙の故に、被害者が何を考え/感じたのか、我々が知ることが難しい。そして、それら(直接・間接的)被害者をどのように追悼すべきか、そしてどの程度、どのような方法でもって行うことが望ましいのか。

第二に、倫理・道徳的審判を歴史家が下すべきであるのか。表現の自由から判断を下すことも、同時に下さぬことも許されているが、どちらをとっても非常に困難である。判断を下す場合は、勿論判断するに足る十分な証拠がなければならないこと。それでも価値判断からは自由となりえないため、①各時代(epoc)の持つ価値、②自らの持つ価値、③普遍的な価値(国連の人権宣言などにあらわされる)の三つを常に意識し、その違いをよく認識しなければならない。

判断を下さぬことも許されるが、しかし歴史的な検証を続けていき、目を覆いたくなるような人権の侵害や被害者の惨状を目の当たりにした時にはむしろ倫理的・道徳的な裁きを下さないことがむしろ難しいのでないだろうか。

第三に、一般大衆が歴史的検証をどのように受け止めるのか。史実の正さが充分な論証を持ってなされても一般大衆がそれを受け入れない可能性もある。また、過去の悲痛な歴史を詳らかにすることで、過去の傷に触れることになる。一般大衆は、それらの過去に耳を傾けることを躊躇するであろう。



↑会場の様子がビデオに(私も密かに映っていますw)

まとめとして、歴史家は裁判官ではない。それ故に、歴史的な事件に対して審判を下せない。しかしながら、歴史家によって責任ある歴史記述が果たす役割は個人、社会に対して大きい。ゆがめられた理由を正し、機密性・虚偽・沈黙を破る。直接的・間接的な被害者に象徴的な補償をもたらしまた、民主主義を強化し、過去の世代が犯した歴史的不正義を現世代に認識させうる働きがある。歴史教育に携わるものの役割は大きい。



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2016年7月6日水曜日

歴史教科書問題に解決は見られるのか(1)

日本・韓国・中国の歴史教科書問題に解決は見られるのか。

条件付きで、そして近隣諸国との関係を良いものとするために、積極的に取り組むべき問題としてYESと答えたい。しかし、歴史教科書、そして歴史認識問題の近年の動向を見てもなかなかポジティブに解決すると簡単には言いきれない現実がある。

日・中・韓の間で、歴史の認識と解釈、特に第二次世界大戦中の日本の植民地支配、歴史的事件を巡り大きな議論となり、外交問題になって久しい。特に近年は、橋下議員の慰安婦発言(国際的なニュースになった)、それら歴史認識に反発するように、アメリカや韓国各地(在韓日本国大使館前)の慰安婦像設置され、その数も増えている。また、中国が世界記憶遺産に南京大虐殺を登録したことなどが記憶に新しい。

ここハーグで7月6日、Teaching for Peace - History in Perspective conferenceが行われたので、出席した。主催はNGO Forum for Peace in East Asia。会議の参加者の多くは韓国で、歴史を教える高校・大学の教員、教科書の著者が多い様子、その他私のようにオランダ在住の人たちであった。
感情的にヒートアップしてしまいやすい問題だけに、どのように会議が進行されるのか、怖くもあり興味もあった。午前中をいっぱいに使った会議では複数のスピーカーやパネリストが会議の方向性、狙い、そして事例などを発表したが、中でも、オランダのグロ二ゲン大学Antoon教授(歴史家)のレクチャーは、短い時間での発表にも関わらずよく整理されており、非常に説得力のあるものだったので、ここにレクチャーの内容を紹介したい。

歴史的不正義とは何か、歴史家は何が出来るのか。教授の発表はこのタイトルに忠実で、一つ目のポイント歴史的不正義とは何かと定義、そこに含まれる要素についてポイントを押さえた説明の後、二つ目のポイント歴史家あるいは歴史教育に携わる人が何が出来るかについて議論した。

不正義とは、全ての戦争犯罪を含めた行為、それらの過去からの蓄積。それら不正義には、必ず犠牲者がいる。犠牲者には犯罪から直接的に影響を受ける直接的犠牲者と直接的犠牲者の家族(親族は含めない。ここでは、家族とはどこまでが含まれるのかも議論の1つとなる。)である間接的犠牲者がいる。また同時に加害者もいる。加害者とは犯罪行為の実行者であるが、加害者には直接・間接の別はない、なぜなら誰かに危害を加えるという行為においては「間接的」であるということはないから。

また歴史的不正義というときに、時間的に遠くはない昔、最近に起こったもので、被害者・加害者ともにまだ生きているRecent injustice と被害・加害者ともに時がたち過ぎているためになくなってしまっている、Remote injustice がある。
生きている加害者には、法的な裁きを行えるが、既に亡くなってしまっている場合は勿論、その罪状を追求し、法的な裁きを下せない。同時に生きている被害者には、補償がなされなければならない。

国連は補償の5つの形を提唱している。1. Restitution (補償:被害者が被害に遭う前の状態に戻すこと。例:自由を得ること、人権の回復すること、人権、市民権、家族、生活していた土地に戻ること、財が返還されるなど。), 2. Compensation (賠償:精神的・肉体的苦痛、機会の喪失、道徳的なダメージによってもたらされる経済損失への賠償)、3. Rehabilitation (被害者への医療・精神的なサポートを含む)、4. Non-repetition grantee (二度と繰り返さないという約束)、5.Satisfaction (象徴的な補償:公式謝罪、遺体の捜索と改葬、法的制裁など) 

ただ、これらの5つの内4つは生存している被害者には有効で5番目に挙げた象徴的な補償は既に亡くなった被害者に有効である。また、remote injustice (被害・加害者ともに既に他界している)場合もこの象徴的な補償をもって対処されるべきである。

歴史的な不正義とその要素は上記の通りであるが、これらを踏まえて歴史家あるいは歴史教育(NGOワーカーも含めて)携わるものは何ができるのか。
参照資料
THE UNITED NATIONS BASIC PRINCIPLES AND GUIDELINES ON THE RIGHT TO A REMEDY AND REPARATION FOR VICTIMS OF GROSS VIOLATIONS OF INTERNATIONAL HUMAN RIGHTS LAW AND SERIOUS VIOLATIONS OF INTERNATIONAL HUMANITARIAN LAW
http://legal.un.org/avl/pdf/ha/ga_60-147/ga_60-147_e.pdf

2016年6月30日木曜日

イギリスのEU離脱の衝撃-オランダの場合

1週間前の6月23日木曜日にイギリスのEU離脱を問う国民投票が行われました。その結果は、52パーセントが離脱、48パーセントが残留と離脱派が上回り、離脱が決定しました。
ここヨーロッパでは、勿論連日連夜ニュースで報じられ(現在もです)、人々の話題に挙がっています。テレビを付けるとそればかりなので、旦那は情報が過剰すぎると言っていますが、それに同意しつつも無理もない話だと思います。
EUの中心のベルギー、ブリュッセル
あらためてEUとは
EUは、欧州連合(European Union)の略、現在28カ国の連合体、1993年11月1日のマーストリヒト*条約(欧州連合条約)発効により創設されました。ヨーロッパ内で再び戦争が起こることを抑止することを願い創設されました。

マーストリヒト条約でEU設立の目的が記されています。
(a) 域内国境のない地域の創設、及び経済通貨統合の設立を通じて経済的・社会的発展を促進すること、
(b) 共通外交・安全保障政策の実施を通じて国際舞台での主体性を確保すること、
(c) 欧州市民権の導入を通じ、加盟国国民の権利・利益を守ること
(d) 司法・内務協力を発展させること、
(e) 共同体の蓄積された成果の維持と、これに基づく政策や協力形態を見直すこと  
(Treaty on European Union , 外務省)

EUは、経済統合に加え、政治統合の推進を目指す、包括的で大きな機構です。
*マーストリヒトは、オランダ南部の都市。

経済の統合について言えば、EU間は関税がないので、EU圏内の経済の活性化が測られます。
人の移動については、それとは別途、協定が結ばれています。シェンゲン協定といい、ルクセンブルグのシェンゲン村で締結され、これに締結している国の間では入国審査なしで行き来が自由となります。しかし、EUに加盟しているのにシェンゲン条約に加盟していないイギリス、EUに加盟していないもののシェンゲン条約を締結しているノルウェーなどの国もあります。

EUの歴史をちょっと
1952年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足し、のち1958年にEEC(欧州経済共同体)を発足、経済の統合を目指しヨーロッパのより一層強い統合をはかっていきました。その後EC(欧州共同体)として、前2者の共同体とEURATOM(欧州原子力共同体)の主要機関を統合しました。そのECが現在のEUの前身です。このように徐々に基盤と信頼をつくり、はじめは6か国だったのは現在は28カ国となりました。

イギリスEU離脱派の主張
離脱派の主張は、「国としての主権を回復する」こと。離脱派の前ロンドン市長ジョンソン氏をはじめとする離脱派は、、増える国民の税負担、失業率の増加、治安の悪化、イギリス古来の文化の喪失を懸念していました。
EU離脱で、EU加盟国が払う負担金や、他の加盟国へのサポートして払われるお金(ギリシャ危機)などからも自由になります。

昨年だけで難民125万人がヨーロッパに来たとされてます。難民が到達した国々では、彼らを路上で生活させることは出来ないため、シェルターに連れて行き、その後難民申請を行い、受理されたら、その国で生活となります。(おおざっぱな説明となってしまいましたが、実際は細かいプロセスがあります。)

文化、言葉が異なる国からの移民となるため、社会的統合には時間がかかり、その間は受け入れ国がサポートします。そのサポートが税金からとなって居ることが受け入れ国側の不満となっていたりします。特に、ヨーロッパ諸国の税金は高いので、税金にみあった社会サービスをローカルが受けられなくなる?のではという声も出てきて不思議ではありません。

また、都市部の近年見られるようになった慢性的な混雑は、人口増によるものですが、EU圏内からの移民によってのものと言われています。

残留派の主張
ヨーロッパの金融市場の中核と言う地位を失う、そしてEUの混乱が起こることを懸念。
イギリスが離脱すると、EU内のパワーバランスがドイツに大きく傾くことになります。それを快く思わぬ国が離脱、EUが解体していくのではないかという懸念があります。

ただ、実際彼らの(いまとなっては)失敗は、離脱したら経済的損失が大きいというものの、それが当に脅しのようになり、移民の問題について提案が出来きませんでした。

イギリスEU離脱のオランダ人の反応
EU離脱で起こるとされていることにイギリスポンドとユーロの信用低下、価格の下落、景気の後退はよく言われることで、オランダ人の友人は経済におけるインパクトを懸念します。何せ、イギリスはオランダの重要な貿易国ですので。

なので、大方のオランダ人は英国の決断を残念な気持ちで受け止めています。先日もちょっとした会合に出席した際に、開会の辞でEUの離脱について触れていました。勿論、コメントは「とても残念だ!」とのこと。

ただ、オランダ人の友人は、もう起こってしまったことなのだから、次にどう進むかだとのこと。しかしオランダでも、EU離脱を叫ぶ人たちもいます。離脱を訴える政党は徐々に議席を伸ばしつつあり、英国の離脱が他の国に与える影響―離脱の選択肢を国民に考えさせる心配が僅かながらあるもの事実です。

オランダの難民
オランダ人は「節約家(別の言い方をするとケチ)」な人種と言われますが、こと社会問題、誰か助けが必要な人が居たら身銭をきれる、ポリシーある節約家(ケチ)であります。
中東地域からの難民がオランダにも相当数おり、彼らにニーズを提供することに関しては「義務」と思っている節があるようです(勿論、国民全体というわけではありませんが)。
シリアからの難民が難民申請をした場合は、かなり高い確率で難民申請が受理されるようです。ただ、他の地域例えばイラン出身の難民は申請しても受理されるとは限りません。これは別に差別しているというよりは、国としてシリアの現状をみて、その国からの難民に比重を置いているという意味です。

オランダ人の友人が今シェルターでボランティア活動をしているとのことですが、彼女のイラン出身の友人はゲイで、イランの自宅に留まっていたら厳格な父親に殺される(父親も帰ってきたら「殺す」と言っているそうです。どうやら脅しではないようです。)と、逃げてきたとのことですが、彼のケースは命が脅かされているケースであるものの、申請しても受理される可能性は低いようです。

オランダに生活するイギリス人
オランダに生活するイギリス人の法的地位は今後結ばれるであろうイギリスとオランダの二国間あるいはイギリスとEU間で結ばれる条約によるところが大きいのは勿論のこと。既にオランダで生活している英国民をいきなり追い出すことはできません。新しい条約取り決めによっての登録が義務付けられることでしょう。ただ、もうEU市民ではないので、EUに関する投票権、オランダで行われる選挙への投票権はなくなり、オランダ国内で働いている人の家族の呼び寄せに影響がでることでしょう。

長期で滞在するイギリス人は今後のことを懸念し、オランダ国籍にアプライすることを検討している人もいるようです。
(DutchNews.nlより)

保守党の政治的なガス抜きを狙った安易な国民投票の約束が招いた結果で、アナリストが指摘するように、キャメロン首相の根拠なしの楽観という感はぬぐえません。彼の退任の挨拶はかっこよかったんですけどね。

今は蜂の巣をつついたような騒ぎですが、暫くしたらイギリス抜きのEUとして機能していくに問題はないと思いたいとことですが、これによってEUが解体するのではと危惧するのは上記のように言い過ぎではないかもしれません。大きな視点で見ると、反グローバリズムへの動きの1つなのではないかと・・・思うこともなきにしもあらずです。




2013年11月19日火曜日

フィリピン台風-被災した実家を訪れた友人の話

台風で壊滅的なダメージを受けたタクロバンを家族の捜索のために訪れた友人がマニラに戻っていると連絡を受け、彼女とひと時お茶をしました。

彼女とは入学年が異なりつつも一緒にスキューバーダイビングを楽しんだり、お茶をしたりして頻繁に会う仲の良い友人。そのため、一週間前に彼女が家族の捜索のためにタクロバン入りをする話を聞き、驚きそして心底心配しました。

11月8日に直撃した台風から一晩、眠れぬ夜を過ごした友人は翌日にはタクロバン入りを決意、そしてつてをたどりアメリカの軍用機に乗り込んで現地りを果たしました。彼女の実名と破壊された彼女の実家はUSA TODAYに「Searching for loved ones in typhoon's devastation」でインタビューと共に掲載されています。医療品が積みこまれた軍用機から彼女は実家を目撃し、写真に収めています。

おりたつべき空港も流され、至る所ががれきの山。彼女の到着は比較的早かったため、回収されていない遺体も至る所にあり、道すがらそれらを見ました。公共の交通手段が機能していないために数時間歩いて生まれ故郷のタクロバンの生家に到着。骨組みのかろうじて残った家を見て愕然としたと同時に、その場にいた親族に家族の無事のニュースを受けました。

両親との再会、これまでにないほど強く両親をハグしたようです。私自身も昨晩、マニラに戻った彼女に同じことをしたので、生存の安否を気にしていた家族であればなおさらです。

家族の安否を確認して、どういうわけか友人の口から出来てた質問は「私の部屋はどこ?」、両親たちは大爆笑だったようです。上述の通り、骨組みのみが残る家には、家具が洗い流された後に外から入ってきた泥水、そして瓦礫が占有しています。家族が団欒を楽しんでいたリビングルームからは泥に埋もれた子どもの遺体があり、のちに近所の子どもが行方不明となっていたのでその子どもではないかとのことでした。

台風のその日、水は5メートルほどの高さまで上がりました。台風の当日両親は避難所には行かず、自宅で過ごし難を逃れたと言いますが、ある種これほどひどくはなるまいという楽観的観測があったように思います。湾岸都市、タクロバンもとりわけダウンタウンはその地理的な条件故に今回の台風の中幾度となく高波が異なる方向から襲いました。

家族の安否を確認した後に街を歩くと瓦礫の山そして遺体。中でも子どもを強く抱いたまま溺れた母親の遺体を見た時にはやるせない気持ちになったといいます。

生存者も瓦礫などで怪我を負い、国内外の医療チームが治療にあたっていますが、麻酔なしで簡単な外科手術を行わなければならないこともただあり、友人は家族を亡くし誰も付き添うものが居ない患者の手を手術中ずっと握っていました。

また、台風の高潮に襲われ家族の全てを失った8歳の女の子にも出会ったといいます。彼女は強風と高潮が収まるまでずっとヤシの木にしがみついていたといいます。

現在彼女の家族はマニラの彼女のアパートにて生活しています。家は破壊しつくされ、彼女の実家もそして街も復興にどれだけ時間がかかるのかわかりませんが、台風の巨大化そして進路が南に傾きつつある昨今、災害に強い街を作るのと同時に「地球の温暖化は本当に進んでいる」という友人の言葉の通り、温暖化の対策と個人・社会の責任を強く意識するものです。


2013年11月18日月曜日

ミンダナオPeace Camp (1) :全体の様子

10月31日から11月8日まで、フィリピン、ミンダナオ島、キダパワンで行われたピース・キャンプに参加しておりました。このピース・キャンプは特にIP(先住民族)、クリスチャン、ムスリムの若者をつなぐ、平和という観点から行われた人材育成のプログラムです。

実施団体はBinhi ng Kapayapaan. Inc(平和の種)、(以下ビンヒ)という団体です。代表は教育者/活動家(NGOワーカー)である、フィリピン人女性、私たちの間では母親的な立場であるためナナイ・アンゲ(Nanay Angge)、アンゲお母さん。彼女が、フィリピンの平和関係に携わる人を巻き込んで始めた活動です。ピキットのピースゾーンを作るのに尽力されたバート牧師も創設メンバーの一人です。元々はアレリアノ大学を母体としておりましたが、今は独立してNGOとして活動しています。

9日間の日程で行われた今回のキャンプは過去5年の集大成でした。通常このようなキャンプ/トレーニングは一過性で、一度参加したらそれ以降は参加しないのですが、3つのグループの若者の関係を強固にするため5年というタームを持ってキャンプやワークショップを実施してきました。今回は、これまで参加してきた彼らの「卒業」の時であり、代表も一歩退いて若い世代が代表の役割を担うことになる、まさに団体としても変化の時でもありました。数年間参加した若者は高校生であった者は大学生に、そして大学を卒業して、それぞれの専門分野で既に働いている若者のたちもいます。

フィリピン人はお話し好きで、大家族で育ったためか非常に人との関係を作るのがウマいのですが、地域性が強く一つにまとまるのが本当に難しいと言います。5年間をかけて徐々に束ねて行った様子が伺えます。

約50名の参加者は、キャンプ中仕事や学校の都合で早く帰らねばならない者や途中から参加する者もいましたが、それによって雰囲気が変わるというわけでもなく皆で和気藹々と過ごしました。

国道から見えるピースガーデン
キャンプのコンテンツは、歌や踊りなどの情緒的なもの、あるいは宗教的なもの、これまでのキャンプの中で彼らが作った儀式的なもの、知性よりはどちらかというと感性に訴えるワークショップ、そしてゲストスピーカーによる話、クライマックスがミンダナオで紛争を経験した地であるピキットでのピース・ウォークでした。

私はゲストスピーカーの一人として、広島の原爆の話、そしてどうやって平和活動に携わるようになったのか、先方からリクエストを受けた内容を盛り込んで話させていただきました。また、2歳の時に被曝し、若くして亡くなった佐々木貞子さんの話をした後に皆で折り鶴を折ったりもしました。

大まかなスケジュールは以下
10月30日マニラからダバオ、キダパワンの宿泊・研修施設へ移動
10月31日ミンダナオ島からの参加者と合流
      開始
11月1日オリエンテーション、キャンプへの期待、キャンプの歴史、ゲストスピーカー(1)「ミンダナオ和平プロセス」
11月2日ゲストスピーカー(2)「コソボの紛争」、ワークショップ「私の平和への旅路」
11月3日ゲストスピーカー(3)「原爆、そして平和活動」
11月4日ゲストスピーカー(4)「平和活動に携わる女性」、団体のこれからについてディスカッション(1)、リーダーの選出(投票)ゲストスピーカー(5)ピキットについて
11月5日ピース・ウォークの準備、
11月6日ピース・ウォーク、式典@ピキット、バランガイ・タケパン
11月7日団体のこれからについてディスカッション(2)、クロージング
11月8日リフレクション
11月9日移動(キダパワン-ブキッドノン)、先住民族のコミュニティでの儀式に参加
11月10日移動(ブキッドノン-カミギン)
11月11日~13日カミギン滞在

盛りだくさんの内容は現在振り返り消化しているところです。

それにしても、人が育っていくのは自分を含めて時間がかかるのだと改めて思いました。団体の名称通り、平和の種が播かれ芽を出したと言ってもいいかもしれません。その象徴が、クライマックスのピキットでのピースフォーク、NGO、地元住人、教員、兵士、警察も参加しました。「平和は達成可能」それを観たピキット出身の参加者が口にした言葉です。

平和にちなんだ試みは数多く行われていますが、平和の可能性そしてそのプロセスをフィリピンの若者が自分の事として感じるには十分な期間であったと思います。

※11月13日マニラに戻る予定でしたが、フライトのキャンセルのため、14日マニラに戻りました。


2013年11月17日日曜日

フィリピン台風被害の支援-何が出来るのか?

ミンダナオでの平和キャンプを終えて戻った後、キャンプを主催したNGOのミーティングに参加し、台風の被害を見聞きして受けた印象、あるいは親族との音信が途絶える家族への心配の思いを共有し、カトリック教会の呼びかけに応じて被災者への祈りをささげると同時に今後個人として、また団体として何が出来るのかを話し合いました。

会議参加者から聞かれた声
皆から聞かれた言葉は、驚き、悲しみ、痛み、しかし希望もあるといったものでした。会議を参加した大半の会議参加者が、Peace Campに参加していたため、インターネットあるいはテレビが見られる環境になって状況の深刻さにまず驚愕しました。家族、親族と連絡がつかないため心配する気持ちを抑えられない、あるいはテレビの映像を観て思わず涙を流したと言います。そして多くを失ったことへの痛み。しかし、困難な状況はこの個性ある地域に分断された国が一つの方向を向いてくきっかけではないかという声も聞かれました。フィリピン人は皆仲が良いので一つにまとまりやすいと思われがちですが、実際は古くから地理的な分断により独自のコミュニティを作ってきてきたため地域主義が染みついています。皆が同じ方向を向いて国を考えるチャンスなのだろうと考えたと言います。痛みを伴いつつもその起こった意味を捉えようとしている様子でした。

この間、政府の対応のまずさが批判の対象になっていますが、地域の政府を持って動く中央政府は地域政府に勤める役人自体が被災しているために出来ることが限られているようにも思われます。日本の震災の時もそうだったと思います。そうした状況で、政府の対応が十分ではないとどこまで言い切れるのか。それを予想して対応できるほどの資源も予算もあるのかも不確かであるため、私自身も含めて政府の非難より政治的意志の統一と動員がどこまで可能か、そしてそうなることを望む声が多く聞かれました。それと同時に海外からの迅速な支援に励まされるという声が聞かれました。

被災者への祈り
枢機卿タグルは、会議の行われた16日土曜日を追悼と希望の日として、祈りによる団結を呼びかけました。懺悔と瞑想、そして断食を呼びかけました。夜6時には教会の鐘が鳴り、一月前のボホールでの地震、そして今回のスーパー台風の被災者のために祈りを捧げました。
大きな災害が起こると宗教的意味合いと結びつけられる土地柄です。タクロバンを聖書のソドム・ゴモラの町に結び付け人々が話す声も聞かれます。また、他の宗教からはカトリックへの批判、教会の腐敗の故に罰が下ったという人もいるのだとか。今日の祈りの日がレイテ島の被災者たちを無言で糾弾するものではなく、個々人の深い内省に結びついたらと思っております。

何が出来るのか
個人、グループ、短期、長期の視点でざっくり話し合いました。詳細は来週のリーダーミーティング(なぜか私も投票によりリーダーに選出されましたので・・・)に持ち越しですが、以下がおおよその話し合いの結果です。

個人としてすぐに出来ることとして挙がったのは
-FBでポジティブなメッセージを拡散し、団結を呼びかけること
-寄付
-自分の生活習慣を変える

団体として出来ること
-サイコソーシャル(Psychosocial)、心理的手法を用いての被災者支援のためのボランティアトレーニングと派遣
-団体のメンバーに一日30分、夜の9時から9時半まで電気を消す、そして瞑想の時間を持つ

自分の生活習慣を変えると言うのは、台風の巨大化が地球の温暖化による可能性が高いため、今回の台風を警告として捉えて自分の生活を改めるということでした。環境活動家は、仕組みの変化の重要性を強調し、こうした個人の取り組みを軽視する傾向にあると思います。電気も留めておくことが出来ないので使わなくてもその分を発生させる仕組みがもう出来上がっている・・しかし、それらの事実を認識しつつも啓蒙的意味合いを持って30分の消灯など決めたわけです。台風を止めることは出来ないまでも台風をもしかしたら巨大化させないための温暖化への取り組みは、個々人としても社会として取り組まねばならないことだと感じます。なので被災者支援へのサポートも大切ながらも、環境問題にどう取り組むのか具体的な策の必要性を強く感じます。
瞑想の理由は、情報と物質に溢れるこの社会で衝動に抗らう力を高め、不安を軽減するなどの効果があるためです。シンプルに生活を営む一つきっかけとなるのではと思います。

最後に
寄付が何より有難いものの、台風が来るたびに対処的に援助を行っている状況に何とも言えぬ疲労感を感じます。自らも何か出来る道を探りつつも、地球そのものの環境の変化と捉えて、まずは自らの足元から考えるべきだと自分自身思った次第です。

懸念は、今は被害に遭った直後であるために世界的な注目を集めていますが、あと一カ月もしないうちに人々はこの災害を忘れさられることです。またタイミング的には年末年始、お金も必要になります。しかし、被害が甚大であったため、長期的な支援が必要になります。
寄付を考えている方にお願いしたいのは、少々待って頂くこと、そして一カ月、二カ月後に現地の人たちと直接のつながりを持つ団体への寄付して頂くことをおススメします。更に言うと、環境に優しい生活をして浮いたお金を寄付して下さったら嬉しいと思っております。温暖化が巨大化する台風の原因と訴えるなら(汗)その負の貢献をしている先進国や便利な生活を居住する都市部に生きる人々にも大きな非があるとも読みとれるのですが、それなら「罪滅ぼし」のためのお金よりも、原因に対応する形で少しでもお金が集められたらいいのではと思った次第です。

被災者支援ですが、缶詰もそうですが可能な限りローカルのマーケットで物資を購入し、現地の人に食事を準備してもらい、その代価を払う仕組みを作り、缶詰やインスタントラーメンなどで偏りがちな栄養、そして大量のごみが支援物資によってもたらされない援助を行っているローカルの団体もあります。そうした団体を時をみてご紹介していけたらと思っております。














2013年9月7日土曜日

国際平和の日(International Day of Peace)を祝う

 国際平和の日(International Day of Peace)、通称ピースデーのこの日は平和、特に戦地なら一時的に停戦とするように推奨される日で、フィリピンでもこの日に現地のNGOによってイベントがおこなわれ、滞在期間とこの日が重なると必ず出席しています。

[国際平和の日の始り]
 1981年11月30日の77回目の総会で、コスタリカとイギリスの発案で国際平和の日が、国連の決議36/67として決議され、9月の第3火曜日(総会の通常会期が始まる日)を平和の理想を強化する日としました。しかしながら、1989-1996年までの間に大型の武力紛争は減少傾向を示すものの、既存の国家権力への挑戦を重点とする新型の紛争が見られるようになり、平和の日は無視され続けてきました。

[9月の第3火曜日から固定の9月21日へ]
イギリスのフィルムメーカーであるジェレミィ・ギリがロビーイングにより関係政府に働きかけをしながら、2001年9月7日の決議55/282で、9月21日に固定された日になり、紛争地域に一時停戦を呼びかけるようになりました。2001年9月11日、当時の国連事務総長であるコフィ・アナンが、メディアに向けての発表を行い、国連の平和の鐘を打ちイベントを行うという時に、ワールドトレードセンターへの旅客機衝突、アメリカ同時多発テロ(911)として知られる事件が起こり、イベントは中止、ニューヨーク国連ビルに集まったメディア、式典参加者は避難を余儀なくされました。
 この平和の日、正確には人々の平和を望む人々は、来る対テロ戦争などでその日が意味するところを試されることになります。何とも波乱な平和の日、第二章の幕開けでした。

Peace Wallの序幕式(2009年)ケソンメモリアルサークル
にて
[フィリピンでの国際平和の日を祝うイベント]
 滞在中のフィリピンで、平和の日のイベントに度々参加してきました。毎年行われているケソンメモリアルサークルでのイベントでは、主にケソン市のNGO、Gaston Z. Ortigas Peace Institute、ミリアム大学の平和教育センター、Peace makers circleなどが中心となりながら、コンサート、ゲームなど気軽に楽しめる企画をし、大小様々な団体が参加しNGOなどのブース展示もします。
 同日に和平プロセス担当大統領顧問室(Office of Presidential Advisor on the Peace Process:OPAPP)がフィリピンの商業都市であるマカティ市のショッピングモールで、音楽とこれまでの活動の発表をするイベントも開催されました。当日動員されたであろう多くの警察官たちがいたのが印象的でした。

[参加した感想]
 公園、あるいはショッピングモールでの開催で一般の人の目に触れる場所でありますが、それでもやっぱりまだ、マイナーな日であることは変わりません。現在生活するオランダの街の学生たちに国際平和の日にワークショップをしようとという話をしたら、それはいったいどういう日なのか?と聞かれました。国連の定めた記念日などよほどの機会がないか、ニュースとならない限りは知らなれないと思います。私が国際関係などに興味を持つ前などは、かろうじて「世界のこどもの日(11月20日)」、「女性の日(3月8日)」などは聞いたことがありましたが、それ以外はあまりなじみがありませんでした。
 世界で起こっている出来事に対して、わずかながらも考える余地を生みだすのが、啓蒙としての国際記念日の良さですが、実際はあまり知られていない日が多いということと、それがメディアとしてのニュースバリューをあまり持ちえないという難しさがあると思います。だから、国際機関のみならず国内のキャンペーンでも著名な人たちに関わってもらうことで認知度を上げるようにつとめます。啓蒙、イベントを打ってお金がかかり、数値的な結果がすぐに見えないけど、何もしなければ何も始まらないのですが、難しいところです。

[日本ではどうだろうか?]
 これまでの平和運動の経緯で、平和とその活動自体が参加する人達の(政治)思想によって平和が解釈され、特定の政治体制、国に偏った批判とその批判を行う団体と理解されていると感じます。また、「平和」だれもが反対出来ない言葉ながらも、どこか現実を無視したような愚かな理想主義的な響きすら感じさせてしまいます。
 フィリピンでは昨年2012年の10月フィリピン政府と、モロ・イスラム解放戦線(MILF)との間に歴史的な和平講和の枠組み合意がなされ、40年にも渡る紛争が一つの大きな区切りを迎えました。現在は、両者で今後の詳細を決める話し合いが続いていると言います。上記のような平和団体による活動による成果と言うよりは何よりも政治的意志が強かったと思いますが、フィリピン政府の組織OPAPPで交渉に携わってきた女性は上記に述べたNGO出身でした。草の根の視点を知りつつ、政府に批判的な姿勢を少なからず持っていると思いますが、それでも平和構築の重要な一役担いました。NGOなどの国に比べると小さな組織と、政府とのつながりのダイナミズムを感じました。フィリピンだから出来たのでしょうか? 
 
 最後に、平和な場所から、平和を訴えることは何とも愚かなことと思われるかもしれませんが、所謂先進国と言われる豊かな国が考え、そして果たせる政治的、かつ経済的な役割は大きいと思います。多国籍企業は、紛争地にもその支社を持ち影響を持っています。そうした国や企業が紛争に関わる中で大きな影響を与えてきたということは繰り返し言われてきたことです。「紛争ダイヤモンド」などは分かりやすい例ではないかと思います。

 今年の平和の日は、オランダ田舎街(なんて失礼な!)でワークショップを行います。それまでに現在の夫婦喧嘩の停戦、和平講和にのぞみたいと思います。