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2013年9月7日土曜日

国際平和の日(International Day of Peace)を祝う

 国際平和の日(International Day of Peace)、通称ピースデーのこの日は平和、特に戦地なら一時的に停戦とするように推奨される日で、フィリピンでもこの日に現地のNGOによってイベントがおこなわれ、滞在期間とこの日が重なると必ず出席しています。

[国際平和の日の始り]
 1981年11月30日の77回目の総会で、コスタリカとイギリスの発案で国際平和の日が、国連の決議36/67として決議され、9月の第3火曜日(総会の通常会期が始まる日)を平和の理想を強化する日としました。しかしながら、1989-1996年までの間に大型の武力紛争は減少傾向を示すものの、既存の国家権力への挑戦を重点とする新型の紛争が見られるようになり、平和の日は無視され続けてきました。

[9月の第3火曜日から固定の9月21日へ]
イギリスのフィルムメーカーであるジェレミィ・ギリがロビーイングにより関係政府に働きかけをしながら、2001年9月7日の決議55/282で、9月21日に固定された日になり、紛争地域に一時停戦を呼びかけるようになりました。2001年9月11日、当時の国連事務総長であるコフィ・アナンが、メディアに向けての発表を行い、国連の平和の鐘を打ちイベントを行うという時に、ワールドトレードセンターへの旅客機衝突、アメリカ同時多発テロ(911)として知られる事件が起こり、イベントは中止、ニューヨーク国連ビルに集まったメディア、式典参加者は避難を余儀なくされました。
 この平和の日、正確には人々の平和を望む人々は、来る対テロ戦争などでその日が意味するところを試されることになります。何とも波乱な平和の日、第二章の幕開けでした。

Peace Wallの序幕式(2009年)ケソンメモリアルサークル
にて
[フィリピンでの国際平和の日を祝うイベント]
 滞在中のフィリピンで、平和の日のイベントに度々参加してきました。毎年行われているケソンメモリアルサークルでのイベントでは、主にケソン市のNGO、Gaston Z. Ortigas Peace Institute、ミリアム大学の平和教育センター、Peace makers circleなどが中心となりながら、コンサート、ゲームなど気軽に楽しめる企画をし、大小様々な団体が参加しNGOなどのブース展示もします。
 同日に和平プロセス担当大統領顧問室(Office of Presidential Advisor on the Peace Process:OPAPP)がフィリピンの商業都市であるマカティ市のショッピングモールで、音楽とこれまでの活動の発表をするイベントも開催されました。当日動員されたであろう多くの警察官たちがいたのが印象的でした。

[参加した感想]
 公園、あるいはショッピングモールでの開催で一般の人の目に触れる場所でありますが、それでもやっぱりまだ、マイナーな日であることは変わりません。現在生活するオランダの街の学生たちに国際平和の日にワークショップをしようとという話をしたら、それはいったいどういう日なのか?と聞かれました。国連の定めた記念日などよほどの機会がないか、ニュースとならない限りは知らなれないと思います。私が国際関係などに興味を持つ前などは、かろうじて「世界のこどもの日(11月20日)」、「女性の日(3月8日)」などは聞いたことがありましたが、それ以外はあまりなじみがありませんでした。
 世界で起こっている出来事に対して、わずかながらも考える余地を生みだすのが、啓蒙としての国際記念日の良さですが、実際はあまり知られていない日が多いということと、それがメディアとしてのニュースバリューをあまり持ちえないという難しさがあると思います。だから、国際機関のみならず国内のキャンペーンでも著名な人たちに関わってもらうことで認知度を上げるようにつとめます。啓蒙、イベントを打ってお金がかかり、数値的な結果がすぐに見えないけど、何もしなければ何も始まらないのですが、難しいところです。

[日本ではどうだろうか?]
 これまでの平和運動の経緯で、平和とその活動自体が参加する人達の(政治)思想によって平和が解釈され、特定の政治体制、国に偏った批判とその批判を行う団体と理解されていると感じます。また、「平和」だれもが反対出来ない言葉ながらも、どこか現実を無視したような愚かな理想主義的な響きすら感じさせてしまいます。
 フィリピンでは昨年2012年の10月フィリピン政府と、モロ・イスラム解放戦線(MILF)との間に歴史的な和平講和の枠組み合意がなされ、40年にも渡る紛争が一つの大きな区切りを迎えました。現在は、両者で今後の詳細を決める話し合いが続いていると言います。上記のような平和団体による活動による成果と言うよりは何よりも政治的意志が強かったと思いますが、フィリピン政府の組織OPAPPで交渉に携わってきた女性は上記に述べたNGO出身でした。草の根の視点を知りつつ、政府に批判的な姿勢を少なからず持っていると思いますが、それでも平和構築の重要な一役担いました。NGOなどの国に比べると小さな組織と、政府とのつながりのダイナミズムを感じました。フィリピンだから出来たのでしょうか? 
 
 最後に、平和な場所から、平和を訴えることは何とも愚かなことと思われるかもしれませんが、所謂先進国と言われる豊かな国が考え、そして果たせる政治的、かつ経済的な役割は大きいと思います。多国籍企業は、紛争地にもその支社を持ち影響を持っています。そうした国や企業が紛争に関わる中で大きな影響を与えてきたということは繰り返し言われてきたことです。「紛争ダイヤモンド」などは分かりやすい例ではないかと思います。

 今年の平和の日は、オランダ田舎街(なんて失礼な!)でワークショップを行います。それまでに現在の夫婦喧嘩の停戦、和平講和にのぞみたいと思います。

2013年9月4日水曜日

Youth Acty!! ‐若者にオルタナティブはあるのか?

私は学生ではありませんが、NPOのIVUSAさんが発行する大学生のためのフリーペーパー、Youth Acty!の制作に関わっております。
 学生に覇気がない、あるいは守りに入っているなど、いつの時代もですが、学生を含めて若者全般に関しての文句は一向になくなりませんが、「このままでいいのか?」と問題意識や危機感を持ち、何か行動したいと思っている大学生や若者は昔より確実に増えており、その彼らの背中を多少なりとも押すような情報を提供できたらと思い、フリーペーパーの制作を始めました。

 既存の経済至上主義や競争原理に対するオルタナティブな価値観やライフスタイルを、同じ若者・大学生の視点から提案・発信していくとともに、「何かしなくちゃ」と感じている大学生や若者に社会へのアクションのきっかけを提供していくという高い志と健全な好奇心のもと雑誌をつくり始めて早、5年です。

 5年の中で、8回ほどの発行といささか少ないようにも感じられますが、基本姿勢としては毎回大学卒業などで入れ替わる編集者の関心、そして世の中の方向を見ながらテーマを決めて、編集側も学びを深めていく形で発行していきます。

 これまでの企画で、学生らしさ全開の特集は、ダッ●ュ村企画であったと個人的には思います。
学生が東京を離れ、また携帯、パソコンなどの使用を禁止して、自給自足で生活し、その体験を記事にするという体当たりな企画。既存の雑誌にもこうした企画物はありますが、手作りの豆腐、五右衛門風呂、近所の人との物々交換など、数日でいろいろ体験したようで、私も参加したかったと思いました。
 これまで社会への訴求が大きかったテーマは、無縁社会。この言葉の生みの親である、板垣 淑子さん(NHK報道局社会番組部報道ディレクター)、若者を中心に労働相談のサービスを提供しているPOSSEの青木 耕太郎さん(一橋大学)と、ホームレスや生活困窮者、ワーキングプアの問題に取り組んでいる自立生活サポートセンターもやいスタッフの冨樫 匡孝さんなどへのインタビューはレイアウトをしながら、いろいろと考えました。
Youth Acty! のインタビュー記事はこちら→(http://www.youthacty.net/interview/569)

 関わりで学んだ大切なことは、「思いのほかあった若者の力」でした。あれ、若者と活動している
から、若者に対してポジティブで、若者の力を信じているのでは?とよい意味で勝手に思われていますが、残念ながら違います。
 若者に対するネガティブな印象は、私の大学生活にはじまっています。親にサポートされてふにゃふにゃ生きている若者がある種妬ましく、まったく同年代ながら受け付けられない存在でした。自分で生きているわけではないのに、一人前ぶったり、若者の特権と言いつつ(当時の私から見ると)理解不可能なことをしたり・・・そのあたりの突き放し感はいまも変わりませんが、若者だからできることというマジックワードに潜む実態を見て少々見方が変わりました。
 彼らはカオスを内包している。きれいな言葉だと、可能性なのでしょうが、あえてカオスと呼ぶのは、彼ら自身も実態が分かっていないから。もっと年をとって経験を積む混沌が集約されていきます。カオスから夜、昼が生まれたように。色んな意見を取り入れて、自分なりに吟味して、価値観を形成していく時期故に、形作られていく力を感じます。

 若者の力は、更に海外だとより強く感じます。特に途上国と言われる国々は若者の人口比が非常に高く、彼らの政治への影響力は侮れません。日本ではそのあたりは、若者の投票率の低さからも見る通り、弱いと言わざる得ませんが、今後の政治教育と参加次第ではと思います。Youth-Acty!最新号は「僕たちのマニフェスト」と題して、7月の選挙に絡めて、労働・雇用政策、政治参画政策、エネルギー政策などを特集しました。

 近頃はどうかわかりませんが、日本の大学は入るに難しく、出るには易しい故、大学時代を自分を形作る期間としてどうデザインするか、「自分の人生を生きるのか」それとも「他の人の生きる人生を模倣をするのか」の分かれ目ではと思います。
 
最新号のPDFはこちらのウェブサイトからダウンロード可能です。http://unitedyouth.blog96.fc2.com/blog-entry-20.html






 

2013年9月2日月曜日

アンネの日記の舞台を訪れる - アンネフランクハウス‐

 アンネ・フランクは、「アンネの日記」の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女。ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれ、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家は故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命しました。
アンネフランクハウス(Anne Frank Huis)は、オランダのアムステルダムにあり、アンネ・フランクの一家を含めた8人が1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れるため隠れ家として住んでいた家を利用した博物館で、現在アンネ・フランク財団が管理運営を行っております。オランダ訪問の際は立ち寄るべき場所であると思います。

 博物館自体はそれほど大きなものではありませんが、二年間隠れ住んだ屋根裏、アンネの日記の原本、当時の反ユダヤ主義を回想させる展示物など歴史的な資料も見ることができます。また訪問者が人種差別について考える映像を交えた仕組み等があり、展示物を見て考えたことを反芻できる場所となります。

 この隠れ家で生活していたのは、アンネ・フランク、オットー・フランク(アンネの父)、エーディト・フランク(アンネの母)、マルゴット・フランク(アンネの姉)、ペーター・ファン・ペルス(アンネと恋愛関係になる少年)、ヘルマン・ファン・ペルス(ペーターの父)、アウグステ・ファン・ペルス(ペーターの母)フリッツ・プフェファー(歯科医)の8人。彼らの名前は日記では本名でつづられていません。8人のうちで生き残ったのがアンネの父、オットーフランクでした。アンネは、ドイツ軍からの解放を待たず、姉のマルゴットが亡くなって2,3日の後腸チフスのため強制収容所にて亡くなりました。

 8人が隠れ住んだ場所は、1階、2階部分はオフィスとして使用されいた場所で、3階4階部分を隠れ家として改装して使用していました。部屋は8人が生活するには少々狭く、事務所が開いている日中は音に相当気を使わなければならないものの、それでも個々人のプライバシーは確保され、家具なども事前に運ばれて準備をされていたために自由はないながらも、生活は営めたようです。隠れ家では、そうした難しい事情ながらもユダヤ教の祝い事や誕生日なども祝われたといいます。アンネフランクハウスの内部は残念ながらカメラ撮影禁止ですが、youtube(Visit The Secret Annex Online in English, Dutch or German!で検索)で内部の様子を映像として公開されていますので、視聴おススメです。
 
アンネの日記は60か国語以上に翻訳され、多くの人に読まれ、またこれまでに映画化(アニメ化)がなされ、世界一有名な日記帳ですが、これまでに日記については様々な論争がありました。日記のオリジナル性を問うもの、ねつ造疑惑等です。日記は14、5歳の少女が書いたものとしては早熟であったということ、日記にはオリジナル版と清書の2つが存在し、どちらも完全な形では残っていなかったため、のちにオットー・フランクにより、両原稿を相互補完する形で編集されたため、本人の筆ではない等などの批判がなされました。ちなみにオリジナルは辛辣な批判、(特に母親に対する)も含むため、削除された箇所もあります。そのような理由から後に鑑定が行われ、最終的にはアンネ本人が書いたものと結論付けられたといいます。
 また、そもそもアンネフランクなる人物は存在しなかったという批判がなされ、裁判になりました。後に一家を逮捕した秘密警察を探しだし、アンネフランクが実在の人物であるという証言を得ました。いくつかの法廷論争が後に起こったのですが、判決からアンネは存在していたし、アンネの日記は価値ある書籍であるという結論は変わらないと思います。そして、2009年にはユネスコの世界の記憶にも登録されています。

 アンネの日記とともにおススメが、ビィクトール・フランクルによって書かれた「夜と霧」。強制収容所での過酷な生活の記述とともに、いかなる人生の局面においても人間の内面とそこに宿る何かを忘れないことが生きる力となるという感想を持ちました。人間の心理、内面への洞察が哲学的であり、収容所を体験した個人の記録としても非常に意義深いのですが、深い哲学性故にこれまでに多く出版されて来た収容所の体験談以上に長く読まれているのだとおもいます。

[アンネフランクハウス]
電話 020 556 7105
ウェブサイト http://www.annefrank.org
Youtube http://www.youtube.com/annefrank
Twitter http://twitter.com/annefrankhouse
所在地 Prinsengracht 267 1016GV Amsterdam

2013年9月1日日曜日

ヴェステルボルク通過収容所を訪れて

身近な人が亡くなることを悼むのは自然の心情。彼らとの関係から、自分の一部が亡くなるように私は感じます。しかし、まったく会ったことがない人が亡くなることにはそれほど繊細にならないのではと思います。敏感に彼らの死を感じるとしたら、それは恐らく彼らの人生の一部を何らかの形で知って、一時でも彼らの状況を想像する、感情移入する時、あるいは自分の経験と照らし合わせて彼らの状況を慮るときなのではないでしょうか。ニュースなどで聞く他人、そして多数の死は数以上に何も意味を持たないものなのでしょうか?全てに敏感になっていたら身がもちませんが、彼らをそういう状態に置く、暴力を憎む気持ちを持ちたい、そして歴史を学ぶためこうした場所に極力訪れるようにしています。

 ヴェステルボルク通過収容所は、第二次世界大戦中、オランダのユダヤ人やジプシー(ロマ民族)、レジスタンスなどの人たちがオランダの外、とりわけドイツ、ポーランドにある絶滅収容所や強制収容所へと移送されていく通過点になった場所です。1944年8月4日、アンネフランクの一家はゲシュタボによって隠れ家を発見され、その後8月8日に移送され、アウシュビッツ強制収容所に移動されるまでの約一カ月をここで過ごしました。残念ながら交通の便があまり良くはない場所にある博物館ですが、オランダにお越しの際は来られたらよい場所かと思います。

 ヴェステルボルク通過収容所の博物館の展示は、大きくは2つに分かれています。一つは通過収容所と収容者たちの生活、そしてその当時の情勢などが時系列に説明されています。もうひとつは、手紙や証言など個人の記述、証言によってこの歴史的出来事を学べるスペース、とくに16歳以下の子どもたちがオランダのフトのキャンプからソビボル強制収容所に移送されその直後に虐殺された史実について焦点を当てております。博物館そのものはそれほど大きくはありませんが、展示物から歴史を学ぶことが出来、当時の様子、そして収容された個々人の人生、彼らの感情、そして家族とのつながり等を強く感じました。

 1941年、ドイツ軍は全てのユダヤ人をオランダの国外に強制退去させることを決定しました。ユダヤ人がシナゴーグを中心としたコミュニティを形成していることを知る、ドイツ軍はそれらリーダーはドイツ軍の意向に従うべく協力を強制されました。国内全てのユダヤ人は登録を強制され、登録をもとにヴェステルボルクに一時的に移送されます。勿論、強制退去の後に強制収容所で虐殺されることを聞き、登録をせず潜伏そして中には抵抗運動に加わる人たちも居ました。

 強制移住に際しては、手荷物はたった一つのスーツケースあるいはバックパックのみの携帯を許されました。収容所の登録に際して、全ての貴重品とお金は没収されます。収容されたユダヤ人たちの望みは、この通過収容所に解放される日がおとずれるまで、一日でも長く滞在すること。キャンプ内で仕事を見つけることで、長く滞在出来ることから、収容された人々は仕事を探すことにつとめたといいます。
 親衛隊(SS)は、通過収容所での生活を一般的な街のそれと変わらぬように努めたと言います。人々は結婚し、子どもも生まれ、病人は手厚い看護を受け、子どもたちは学校に通い、キャンプには劇場、図書館そして、シナゴークもありました。キャンプには期待と絶望の異なる感情に支配されていたといいます。

 通過収容所がユダヤ人たちを収容そして、オランダ国外に彼らを移送開始したのが1942年7月15日、1943年初頭から毎週の移送スケジュールが組まれるようになりました。毎週火曜日、1,000人ほどの収容者が移送させられ、1945年4月にカナダ軍に解放されるまで合計93回、10万人以上が通過収容所から強制収容所に送られました。
 35,000人がソビボルに送られ19人だけが生き延びました。62,000人がアウシュビッツに送られ1,000弱が戦中を生き延びたと言います。それらの強制収容施設に送られてすぐにガス室に送られた人々、そしてその他の人たちは、極めて過酷な強制労働に従事させられました。ベルゲン・ベルゼン強制収容所(Bergen-Belsen)、 テレージエンシュタット(Theresienstadt)に送られた8,000人のうち4,000人が生き延びたと記録されています。

 102000回:母、父、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、姪、甥、友人たちが殺された。
 (博物館内の展示物、説明文から) 
印象に残った記述は、未熟児として生まれた赤ちゃんの話。通過収容所に来る6日前に生まれた赤ちゃんは3カ月の未熟児。赤ちゃんの体重はたったの2.5ポンド(約1.1㎏)。通過収容所に到着と同時に、保育器に入れられ、その後体重は5.5ポンド(2.5㎏)まで増えましたが、その後すぐにアウシュビッツに送られたといいます。

 展示されている手紙や記述から、訪れた人は戦争について考え、戦争に対して嫌悪を抱かざる得ないのではないかと思いました。
 けど、実際の国際政治の文脈に合わせると、「仕方がない」と様々な事情から思い、理由をつけます。戦争の理由はいくつもあります。国の独立を維持するため、国防のため、迫害を受けている人たちがいるので保護する責任として、復讐、同盟国が戦争に関わっているから・・・
 国際的道義として、懐疑主義的、国家中心的道義主義、そしてコスモポリタンという異なる見方がありますが自分のコスモポリタンな側面が刺激されたように思います。自分自身、国際政治は、個々人からなる社会の問題とまでは突き詰めて思わず、また絶対的平和主義者ではないものの戦争や圧倒的な暴力をなくす努力、あるいは極力小さな規模で、そして初期で留められる方法はあるし、それを追求すべきであると強く思います。
 暴力を憎む心を持つことの重要性を考えつつ、実際の国内外の政治でそれらの思いがどういう形で反映されるか、現在のシリアの情勢も鑑みて考える日々です。
  

 

 

2013年8月28日水曜日

デモ-非暴力行動で社会に変化を起こす-

 8月25日、ナショナルヒーローズディ、休日の今日、フィリピンでは連日メディアをにぎわせているナポレス事件から、優先開発補助金=PDAFをめぐる汚職を防ぐために、リザール公園でデモが行われました。友人たちもリザール公園に参じた様子がFacebookの写真などからも見られます。10万人が集ったと言われるデモはエドサ革命の10分の1の人数ながらも現政権に大きなインパクトを与えたと思います。

 ナポレス事件こと、優先開発補助金=ポークバレルの不正受給事件が発覚して、一カ月以上経ちますが実際の汚職の規模、関係者の数はまだ今の時点では断定出来ていないようです。監査のできた410億ペソ、内61億ペソ強が活動内容に問題のある82団体(NGOなど)の772事業に、上院議員12人、下院議員180人のPDAFが使われたことが判明しています。

 議員自身が団体運営に関与、複数の団体の代表に同一人物が就任、入札などの公平な手続きを経ず議員の息のかかった業者を選定、支出に対して文書を残さず決定、団体の法律で定められた公的な登録がなく、所在地が不明、本来の目的を逸脱した資金の流用。どれ一つをとっても公的資金の拠出先とはなりえぬような団体であり、監査の甘さが糾弾されざる得ません。

ポーク・バレルとは
 通称ポーク・バレル:pork barrel(豚肉貯蔵用の樽)は、米国を起源とする政府事業助成金を意味し、フィリピンでは、議員の裁量によって事業を特定できる予算を指しています。優先開発補助金:Priority Development Assistance Fund(PDAF)が正式な名称です。ポーク・バレルは、南北戦争期に奴隷に塩漬け豚肉を与えたことを語源とされています。

ポークバレルの歴史
 フィリピンの議会制度は、アメリカ植民地時代の1907年に始まり、コモンウェルス(独立準備政府)発足の過程の中で形成され、その際にポーク・バレル制度も導入されました。大戦後の1946年独立以降、大統領制・二院制議会制とともにポーク・バレル制度も継承されました。
 1972 年のマルコス大統領の戒厳令布告を契機に、ポーク・バレル制度は大統領の特権となり政治的関心、利権の拡大のために使われたといいます。1986 年のエドサ革命によりマルコス政権が崩壊し、1987 年憲法の公布により大統領制・二院制議会制が復活し、ポーク・バレルはそのまま制度として残されました。
 1989 年にミンダナオ開発資金とヴィサヤ開発資金が、それぞれ政府支出金によって設けられ、北部のルソン地方を含めた全国的な開発資金として、 1990 年に全国開発資金( Countrywide
Development Fund:CDF )が設けられ、すべての下院議員・上院議員の選挙区における開発計画が推進されることになりました。2000 年、CDFは優先開発支援資金(Priority Development Assistance Fund:PDAF)に改称されました。
 
 この資金は、比較的国会の審議には通りづらい政治的関心が少なく、そして小規模のプロジェクトに対して使われていると聞きます。特に地方で、中央政府の手が行き届かない場所など、地元の政治家故に通じる事情で、プロジェクトを進めていくことが可能で、まったく完全なる悪ではないと言います。

しかし、この一カ月、フィリピンをにぎわせている今回のジャネット・ナポレス事件では100億ペソもの膨大な補助金が存在しないプロジェクトに、そして少数の利益に流れ、やはりこの補助金が汚職や不正の源泉になることを示しました。また、ポークバレルやその他公的資金をもって建設された建造物などに政治家やその親類の名前が入っていることがあります。法律で政治家が売名行為として、公的建造物の名前に自らの名前をつけることは禁じられていますが、その政治家の名前そのものではないにせよ、祖父など親族の名前などがでかでかとペイントされ、または建物が立てられたそばのターポリンバナーにはその政治家の写真と名前がしっかりを入っています。
 
 8月25日のデモはアキノ政権発足してから最大規模と言われます。アキノ大統領は、制度の見直しと改善を図ることを述べていますが、完全な撤廃を要求する声が高くデモの参加者10万人、そして参加は出来なかったものの今回の事件を発端に見えてくる汚職の全貌に怒りをあらわにした市民たちが、存続を許さないことだと思います。

 事業家で現在逃亡中のナポレスが捕まったら、事件の全容がもっと明らかになるのでしょうか。事実を知ることの大切さ言うまでもないのですが、市民がいったん収拾した事件から教訓を得ても、許し、忘れてしまうのではと恐れます。実際、マルコスの夫人イメルダを筆頭に、本来政治家としての資質が疑わしい政治家がいまだに選挙に出て、票を得ています。それは、政治が世襲化されているということも大きな構造的な理由ですが、どこか汚職を許してしまう体質があるのではないかと思います。アキノ政権でこうした事件が明らかになったことは、政権任期中にとっては一大事ですが、体質改善の千歳一隅のチャンスだと思います。汚職に徹底的に対する政治を掲げてきたアキノ大統領、不正に微塵の隙間も与えぬ政治を任期いっぱいやりぬいてほしいと、部外者ながらも感じます。




2013年8月21日水曜日

「はだしのゲン」がNGOワーカーとなった遠因

 「はだしのゲン」、個人的にも大変思い出深い図書が、松江市教育委員会が、子どもが自由に閲覧できない措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていたことがニュースとなりました。

「はだしのゲン」は週刊少年ジャンプに掲載された漫画で、作者の中沢啓治さんによる、自身の原爆の被爆体験を元にしてストーリーが描かれています。単行本、文庫本などを含めた累計発行部数は1000万部を超え、世界で20ヶ国語ほどに翻訳もされているといいます。2007年5月30日からウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、本作の英訳版を加盟国に配布され(47 News 2007/04/29 07:08)世界的にも知られている漫画です。

 漫画の中に、人の首を切る場面や女性が乱暴される場面など、一部に過激な描写があることが教育委員会の公式見解だそうですが、“一般市民”が教育委員会に図書の撤去の要請をしたことが、今回の発端だったようです。(47 News 2013/08/21 20:51 松江、高知の教委にゲン撤去要請 男性がブログで明かす)
 激しい描写や天皇批判などから、反日、売国漫画だとの批判もあるのと同時に、原爆の悲惨さを訴える漫画、平和を考える漫画としての評価も高く、自分の思想的立ち位置によって大きく評価が分かれるようです。

 私がこの漫画を読み、アニメを見たのは小学生。過激な描写が頭から離れず、漫画とアニメを観た後は数日にわたり睡眠中原爆、戦争の夢にうなされました。影響をもろに受けたわけですが、劇画調の絵が怖かったものの、子ども心に原子爆弾なるものは絶対、二度と使われるべきではないということ、人の命がこうも容易く失われていくことに対する嫌悪感を覚えました。反日的漫画という指摘がある部分は、恐らく私が幼すぎて理解できていなかったと思われますが、「反戦」意識のほうが強く残り、すっかりそのころにはコスモポリタン的な考え方が移植されたように思われます。このような感じ方をしたことはある種の遠因で、高校時代は、図書館にあったモザンビークの内戦について書かれた書籍に影響を受けました。その時は、片田舎の学生でNGOなる横文字のよくわからない職業が存在するとは思っていませんでしたが、それら図書の影響で自然と今のような職業を選択するように押し流されていったように思います。

 今回の一件、私はなぜ今こうしたことがニュースになるのか?こうした議論は作品の古さから今に始まったことではなかったはず。むしろ、こうした閉架図書とするように苦情を送った人、それが受け入れられた地域もあったこと、この文脈に注目すべきだと思いました。

 私と同じ世代でも同作品を読んで、左翼的だ評価している友人たちもいましたが、それは読んだから言えることなのではないかと思います。批判した友人たちも読んだのは子ども時代だったようです。そして、のちのちそうした評価をするのは、それはそれでよいのではと思います。

 しかし、結果論としてかえってこの漫画を知らなかった世代にも知られるようになったのではないかと思います。

 

 


2013年8月6日火曜日

若手ムスリムによるボランティア・NGO活動

 フィリピンでは、残念ながらまだムスリムに対する差別や偏見などがあるようです。勿論、ムスリムに限らず、少数民族に対する差別もいまだ存在しますが、夫の研究の関係で主にムスリムの人たちの首都圏の暮らしに触れる機会がありました。学生寮では、ムスリムと名前などからわかると入居を断られたり、タクシーの乗車を拒否されたり(マニラだと、ムスリムでなくてもドライバーの都合で乗車拒否ということがしばしありますが!)、就職でも有利ではないという話をしばし聞きます。

 差別、偏見故に彼らの存在は、特にカトリックが多数を占めるマニラでは影が薄いのかと思いきや、そうした事情がありつつも非常に活発に活動するムスリムの若者たちがいます。彼らによって立ちあげられたグループのいくつかに出会いましたがそのひとつ、GroupAid。基本的にはNGOをサポートするNGOです。サポートの内容は、開発プロジェクトのためのアドミニストレーション機能強化のためのコンサルタント、アドボカシ‐(提言活動)のためのネットワーク推進、教育的活動の企画・立案・実行など、サポート事業にとどまらず、自らもプロジェクトを実施している団体です。

 出会いはFacebookで、私の旦那がムスリムの人たちを研究のためにインタビューしていく中で、出会いました。コアのメンバーたちは、ムスリムの若手で様々な分野で活躍する人たちをつなげる、Young Moro Professionals Networkという団体に所属しており、積極的な提言活動、とくにムスリムミンダナオ地域での和平プロセスに対して強い関心を示し、時あらば政治家や関係者を招いてのディスカッションなども行い、参加させてもらったことがあります。


 GroupAidの彼らのオフィスを訪問し、オープンなメンバーたちにすっかり居心地がよくなってしまった私たち夫婦は毎週金曜日に彼らのオフィス(あるメンバーの自宅)で行われるムスリムの人たちのためのコーラン勉強会などに参加させてもらいました。コーランの勉強会は、GroupAidのオフィスで行われていましたが、GroupAidの加盟団体の一つであるNurFactoryが主催していました。イスラム教徒としての成長を促す企画・勉強会などを企画・実施し、さらにボランティア活動も行っています。彼らの勉強会に参加し、ディスカッションを通じ、また飲み食いを共にしながら、本で読んで知る以上に実際の彼らの宗教的慣習の一部に触れ、雰囲気を多少なりとも感じることが出来ました。毎週金曜日の勉強会は、団体の活動そのものというわけではありませんが、学びが多いものでした。

子どもたちとゲームを楽しむ若手ムスリムボランティアたち
コアメンバーの女性は、自分の自宅を開放し、ムスリム女子を呼び泊りながら夏合宿のようなものを催したり、断食明けの催しであるイド・アル=フィトルにも招待してもらったことがあり、子牛一頭の丸焼きや、ごちそう、皆で祝うそのムードにコミュニティの温かさを感じました。ちなみに昨年は、イド・アル=フィトルはフィリピンのアクション俳優、ロビン=パディリアの自宅で行われ、ミーハーな私は、一緒に写真をとってもらい、はしゃいでしまいました(汗)

 現在はコアのメンバーの1人はARMM(ムスリム自治区)の知事の推薦を受け、ミンダナオ島、コタバト市にあるARMMのオフィスで働いています。また、他のメンバーも政府系の機関で働いており、それらのネットワークを生かしながら、積極的に提言活動を行っているようで、今後の彼らの団体と何らかの形で関わり、活動できる日をここオランダで楽しみにしています。